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9 叫び声の正体
暗い廊下を走って南の塔から中央広場まで来たけれど、そこからどこに向かえばいいか分からない。耳を澄ませてみても、自分の心臓の音と呼吸音以外は何も聞こえない。完全に手詰まりだ。
一通り城の中の案内はしてもらったけれど、流石に拷問部屋みたいなところは見なかったし、これからどうしよう。このままあてもなく勘を頼りに彷徨うか、部屋に戻るか……と思案しながら、結局ヴェール様の部屋の前まで来てしまった。
書斎のようなこの部屋には、ベッドは置かれていなかった。だから寝室は別にあるはず。お体の具合が悪いのならこの部屋にはいないだろうけれど、ノックくらいはしてみてもいいかな。
ウワァアアアアアア!
「あの声……! 一体どこから」
まだ遠いけれど、南の塔で聞いた時よりは近い。
声のした方へ走ったら、廊下の突き当りまで来てしまった。脇には、何故かそこだけこの城に似つかわしくない古い木のドアがある。
ここにはヴェール様と来たことがある。城の中を案内してくださった時に、この先の地下室にはワインや年代物のお酒が貯蔵してあると説明してくれた。確かにドアの感じがそんな風なのでその時はそれで納得したけれど、冷静に考えるとここから調理室はかなり離れていて使い勝手が悪い。
それになにより、ワインは悲鳴を上げたりしない。行くしかない。
音を立てないように静かにドアを開けて地下へ続く階段を下りて、奥へ続く通路を歩く。真の闇の中、ほんの気持ち程度に小さな明かりが点在しているのが今はとても有難い。
「えっ階段?」
長い地下通路を歩いた先にあったのは、上の階へ続く階段だった。お酒の貯蔵庫などどこにもなく、地下にあったのはただの通路だけだった。
一本道だったので見逃したわけは無いし、何かがあるとすればこの上、ということになる。
アアアアアアユルシテ、ユルシテ!
「あと少しです、頑張ってください!」
上の階から、獣のような悲鳴と人の声が聞こえて来た。人の方は聞き覚えがある。
大慌てで階段を上ると、セバスチャンとオリビア、その先にある大きな檻のようなものの中には、大きな毛むくじゃらの生物がいた。
「ま、もの……?」
この世界の魔物は、小説の中の挿絵でしか見たことがない。けれどこうして目の前にしてみると、どんな動物とも似つかないため一目で分かる。
全身を覆う金の体毛は魔物と言うには綺麗なはずなのに、体中から禍々しい黒いオーラのようなものが絶えず立ち昇っていて美しさの全てを奪っている。
まるで闇が光を侵食して食い尽くさんとしているような禍々しさだ。
「奥様!?」
「リアナ様、どうしてここへ……!」
思わず口を突いて出た言葉を聞いた二人が、驚いて振り返って私を見る。私も驚いてるけど、二人だって振り返って私がいたらびっくりすると思う。
「あ……叫び声が聞こえて気になって……」
「ここは危険です、今すぐ部屋にお戻りください。オリビア」
「行きましょうリアナ様」
二人が緊迫した空気を醸し出して、何が何でも私をここから去らせようと迫る。檻の中にいる生物は見てはいけないものなのかも。
いやでも待って、私ここの当主の奥さんになる人だよね? 見たり知っちゃいけないことなんてある? ない。絶対にない。
「待って、この魔物みたいな生き物は……なんですか?」
私の視界を塞ごうと物凄く迫って来る二人の体の隙間から、どうにか檻の方を見る。
二人が邪魔で全体像は見えないけれど、怪我をしているのか具合が悪いのか、檻の中で苦しみ悶えているように見える。
塔の窓に届いていたあの悲鳴や雄叫びは、この獣の声だったのか。
「見てはいけません、危険ですから近付かないで」
「リアナ様、さあ行きましょう」
オリビアが強引に私の腕を掴んで歩き出そうとする。どうしても即刻私をこの場から去らせたいみたい。獣は檻の中だし、何より弱っているみたいなのに。
私とヴェール様に一番近いこの二人が、私に知られたくないこと、見せられないものは一体何? ……ちょっと待って、あの体毛の金色は見覚えがある。
「ヴェール様?」
ヴェール様の髪の色だ。
「リ……リア゛……グガッガアッ……」
名前に反応して、獣が私の名前を口にした。もしかして、この獣はヴェール様なの?
「今リアナって、私のことを呼びましたよね」
「唸り声を上げているだけです。たまたまそう聞こえただけでしょう」
セバスチャンも一歩も引かず、オリビアと共に私の体を押して階段の方へ押しやっていく。それが益々怪しい。
「そんな、違います。ねえ、あれはヴェール様なんじゃないんですか……!? ヴェール様、ヴェール様!」
また名前を呼んでくれないか、反応してはくれないかと大きな声で名前を呼んでみるけれど、獣は少しも口を開かない。
「ご冗談を、旦那様は寝室でお休みになられています。疑うようでしたら見に行かれても構いません」
「えっ……」
嘘でしょ、と言いたいのを必死に飲み込む。あの獣はヴェール様ではないの?
あれがヴェール様の、ひいてはローレンス公爵家の呪いじゃないの?
それを隠すために、セバスチャンもオリビアも必死に私に見せまいとしてるんだって、瞬間的に理解したつもりだったけど、勘違い?
「ほ、本当に行っても、いいんですね?」
「ええ、ただ薬が効いて眠っておられると思いますので、睡眠の邪魔はされませんよう」
セバスチャンにきっぱりと言われてしまい、一気に肝が冷えて嫌な汗が出る。
かなり確信を持って名前を呼んでしまったけれど、あの獣がヴェール様と本当に無関係だった場合、私は檻の中の獣を、婚約者でローレンス公爵家の主のヴェール・ローレンスと見間違えたということになる。とんでもない不敬だ。
だけど、二人が怒る様子はないので怪しさは未だに残る。一体何が真実なの?
「リアナ様、ご案内します」
オリビアの手引きに、今度は素直に従った。
行きと同じ暗い地下通路を歩きながらも、聞きたいことは沢山あった。
あの獣がヴェール様ではないなら、一体何なのか。飼っているのか、何の理由で、どうして苦しんでいたのか。セバスチャンとオリビアがいた理由は何。だけど、数歩先を行くオリビアの背中からは何も聞かないでほしいという空気が出ていて声を掛けられない。
時折、獣の叫び声が小さく通路をこだまする。胸が締め付けられるような、痛くて辛くて悲しみに満ちた声だ。
突き当りの階段を上って地下を出た時には、ほっと息をついた。
「オリビアはあれが何なのか、教えてくれる気は無いのね?」
「……私の口からはお話しすることは出来ません。どうかご理解ください」
向き合って深々と頭を下げられてしまって困惑する。
「知ってはいるのよね」
「はい」
真剣な顔で頷くオリビアの表情はどこか悲し気で、その理由が気になったけれどやっぱり聞くことは出来なかった。
私にも暗い過去と誰にも言えない秘密があるのと同じように、人は誰しも闇を抱えているのかもしれない。セバスチャンもヴェール様も。そこには安易に触れてはいけないことは分かってる。妻だからといっても、夫の全てを知る権利は無い。
だけど、私の子供はヴェール様と同じ秘密と責務を負うことになる。それなのに知らないままでいい訳がない。ヴェール様もそう言っていたのに。
「案内して。ヴェール様の寝室に」
オリビアが話してくれないのなら、ヴェール様に聞く。あの獣を見てようやく決心がついた。もう私は現実から目を逸らさないしヴェール様を一人にもしない。
「こちらのお部屋になります」
案内された部屋は、ヴェール様が執務をなさっているお部屋からほど近い所にあった。
セバスチャンの言う通りなら、ヴェール様は薬を飲んで眠っていらっしゃる筈なので、ノックはしないで静かにドアノブに手を掛ける。
音を立てないようドアを引いて中に入ると、部屋の明かりは消えていて殆ど何も見えない。窓は小さく、僅かな星灯りを頼りに室内を見回していると、目が慣れてベッドの輪郭が浮かび上がる。
寝顔を確認したらすぐに戻ろう。息を潜めながら一歩ずつ足を進めていって、ようやく枕元が見えた。
「……うそ」
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