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10 リアナ対峙する
ヴェール様の寝室から出た後、オリビアと共に自分の部屋に戻った私はベッドの縁に腰掛けたままの状態で一夜を過ごし、気が付けば朝陽が上っていた。
怒りや憤り、困惑……セバスチャンに対して、ここまで感情を昂らせたことは無い。だけど多分、殴り込みに行かずこうして冷静に座っていられるのは、ヴェール様が負の感情を取り除いてくださっているからに違いない。
私の感情で負担を増やしてしまうのは大変に申し訳がないので、楽しいことを考えよう。
大きく一つ溜息を吐いて、これまでのことを振り返る。漸く、やっと、点と点が繋がったのだ。今こそあのセリフを言う時。
「謎は全て解けた」
手のひらを顔に当てて、どこにもないカメラに向かってポーズを取る。一度は言ってみたいけれど言う機会に恵まれないセリフを口に出して、ニヤケ笑いをする。楽しいことを考えようとしてここに辿り着くのは、完全に徹夜ハイだ。
不審者の如く一人でニヤニヤと笑っていたら、オリビアが朝食を運びに来た。
そこですぐにセバスチャンも呼んで話がしたいことがある旨を伝える。二人とヴェール様には、いよいよ全部を認めてもらわないといけないから。
「お二人はよくもまあ、私にあんな出来の悪い人形を見せてヴェール様です、なんて言えましたね」
朝の慌ただしい時間が過ぎた頃、セバスチャンとオリビアが神妙な面持ちで現れたので、私は二人に着席を進めてズバリ本題から入った。
昨晩オリビアに案内された寝室のベッドに横たわっていた人物は、ヴェール様などではなく、ヴェール様を模した人形だった。
いくら殆ど明かりの無い暗闇だからって、あんな完成度の低い人形でバレない訳が無いのにどうして堂々と嘘をついたのかと思うと、今でも腸が煮えくり返りそうになる。
バレても構わないと思って見せたのかもしれないけれど、二人が存外驚いた顔をするので、バレないと思っていたのかもしれない。
「リアナ様、よくあれが人形だと……」
「あの暗闇でものが見えるんですか?」
バカにされてるのかな?
確かに夜目は利く方だとは思ってるけど、あんなの誰が見ても出来の悪いダッチワ……自制……にしか見えない。
もし前の世界の技術で金に糸目をつけずにヴェール様のドールを作らせたとしたら騙されていたかもしれないけれど。
「あんな偽物を用意するという事は、やっぱりあの獣がヴェール様なんですよね」
そう考えれば全ての謎が全部解消されるし、ヴェール様が結婚を望みながらも二の足を踏まれる理由に納得がいく。
気狂い公爵や呪われた公爵と言われる所以。実の母親が事実を知って愛さなくなった理由。ローレンス家の血筋を絶やしてはいけない理由。寿命が短い理由。全部に説明がつく。
「ヴェール様は、光の盾としてこの国の負の感情を身体に集めて浄化すると言っていました。つまり、ある程度集めた後はあの姿での浄化が必要になるんじゃないでしょうか」
獣の姿での悲痛な声の原因も分かる。恐らく、獣になってしまう事実なんかより、結婚を躊躇する理由はこちらの方にあると思う。
断片的に与えられた情報をここまで論理的に組み立てれば、もう言い逃れは出来ないでしょう。
私は前の世界でウン十年、あらゆる設定の漫画や小説を読んできた。絶対この後の展開が分かってる筈なのに気付かないキャラクターや、全員から好かれているハーレム状態に気付かない激ニブ男主人公も沢山見て来た。
そして毎回思っていた。貴方たちはどうしてそういうところだけ都合よく鈍感になれるのかと……!
どういう運命か小説の中に転生してしまったけれど、私はそんな登場人物たちのようにはならない。
「リアナ様、理解が早すぎます」
「この事実だけは、挙式を挙げられてからと思っていたのですが……」
ようやくこれ以上は言い逃れが出来ないと観念したのか、二人は項垂れながら認めたので、漸く一つ息をついた。
私は『オリヴィエと魔法の冒険譚』が大好きで、小説という形でずっと神視点でこの世界を見て来た。作者ならこうしそう、こういう設定が好きそうというのは何となく分かる。だからかな、無駄に察しがいいのは。
だけどそんなこと関係なく、ここまで情報を与えられていたら分からない方がおかしいと思うけれど……確かに毎晩夜中に窓を開けたりなんかしないでちゃんと眠っていれば、まだここまで辿り着きはしなかったと思う。
でも、聞いてしまったものは仕方がないじゃない。
「それで、ヴェール様は今は……」
まだあの檻の中にいらっしゃるのか、もう浄化は終わったのか、具合はどうなのか気になることは沢山ある。
「ここまで事実を知ったうえでも、ヴェール様についていて下さいますか」
この人たちはこの期に及んで何回私に確かめる気なの。例えここで逃げ出したいと思ったとして、絶対に逃がす気ないくせに。
ああ、一睡もしてないせいかこんな程度で苛ついてきちゃう。ダメダメ、ここで怒ったってヴェール様のためにはならない。
「当たり前じゃないですか、考えるまでもありません」
そうにこやかに答えたつもりだけど、本当に笑えていたかは分からない。だけどセバスチャンは安心したように肩の力を抜いた。
「旦那様は明け方には元のお姿に戻られて、ベッドでお休みになられています。夜までにはお目覚めになるかと」
「よかった……では明日にはお会いできますか?」
「ええ。伝えておきましょう」
私も同じように肩の力を抜いて、椅子の背もたれに寄り掛かる。明け方まで掛かったんだ。あんな辛い時間が何時間も……才がないってヴェール様が自分で言ってたけれど、そういうこと?
ここまで色々分かっても、まだ分からないことがある。はぁ。でも、これでやっとスタートラインに立てた気持ちだわ。これでようやくヴェール様と真の意味で向かい合って、共に歩んで行けそう。
徹夜だし朝から頭を使いすぎて疲れたから、何か甘いものが食べたいな。
「セバスチャン、直ぐに来てください!」
オリビアにお菓子のおねだりをしようと思った矢先に、見慣れないメイドがノックもなしに部屋のドアを開けた。
「どうしました」
「それが……」
メイドの子は、私の方をちらちらと見て言い淀む。それが何を意味しているのか、今なら分かる。
「ヴェール様に何かあったのですか」
「奥様はここでお待ちください」
「いいえ、行きます。行かせてください」
きっぱりと言って席を立ち、部屋の外へ向かう。例え何の役にも立てないとしても、ここまで話を聞き出しておきながら目を逸らすなんてしない。
立ち上がって絶対に譲らないという意志を見せると、二人は顔を合わせて頷いた。
「分かりました。行きましょう」
ヴェール様の寝室のドアの前には、何人もの使用人が集まって主人の名を呼びながら身を挺してドアを押さえ込んでいた。
中からは唸り声と暴れ回る音が聞こえてくる。熊かライオンでもいるのではという迫力がドア越しにでも伝わってきた。
これが、人の出せる音じゃないのはすぐに分かった。昨晩ヴェール様のあの姿を見てしまった分、容易に中の光景が想像できた。
「これほど短期間で浄化が必要になることはありません。恐らく昨晩浄化がしきれなかったのでしょう」
セバスチャンが、私に説明するように話してくれるので一つ頷いた。浄化が終わらなくても人間の姿に戻ることが出来るのか聞きたかったけれど、今はそんな質問をしている場合じゃない。
「旦那様! セバスチャンが参りました。もう大丈夫です、落ち着いてください」
「グヮアアアアアア! ガアアアーー!」
間近で聞くと物凄い声で、思わず耳を塞ぎたくなる。威嚇もあるけど、痛みや苦しみを訴えているような悲痛な叫びにも聞こえて胸が痛む。
もしこのドアが破られたらみんなの命が危ない。そう思わせる迫力がある。
だけど使用人たちは、これが初めてではない顔をしている。きっと過去に何度もあったんだわ。それなら対応策が用意されているはず。
「あのお姿の時も、人として……ヴェール様としての意識はありますか」
「ない時もあります。ある時も、うっすらとだけのようですが」
やっぱり昨晩名前を呼ばれた気がしたのも、私の存在に気付いて反応したんだ。
ここにいるみんなが、ヴェール様に声が届くように声を張り上げている。私も、と声を上げた。
「ヴェール様! リアナが来ました! ヴェール様!」
セバスチャンの言い方を倣うように、名前を呼んで、自分の名前を名乗る。どちらかの名前でいい、意識の中に届いてほしい。
「ヴェール様、やっぱり結婚式は白のタキシードを着てほしいです。お揃いの色にしましょう! きっとすごく似合います!」
「リアナはまだ全然ヴェール様のことを知りません、だから教えてください! 私はあなたが獣になったって構いません!」
「ヴェール様! ヴェール・ローレンス様!」
「ヴヴヴヴ……」
言葉が聞こえているのか、叫び声が唸り声に変化して小さな歓声が上がる。
ドアに体を打ちつける行為もやめて大人しくなったので、まだ何も解決はしていないけれど、少しの安堵が広がった。
「ヴェール様、また一緒に庭園をお散歩しましょう。外に出たら気持ちのいい季節ですよ」
「リ……ア、アアア……」
私を認識した。やっぱり昨日の夜も、私の名前を呼んでくれていたのね。
「どうしたら元の姿に戻れるんですか? 浄化が済めばいいんですか」
「ですが、それには時間が掛かります。その間に外に逃げられてしまったらお仕舞です」
窓はあえて小さく作り体が通らないような作りにはなっているけれど、実際に獣化したヴェール様が本気を出せば、窓を破り周辺の壁を破壊するくらいの力はあるらしい。もし外へ出るという選択肢に気付いた場合にどうなるかは分からない、とセバスチャンに説明された。だから檻に入れる訳ね。
「セバスチャン」
使用人の一人が、液体の入った小瓶を持ってきてセバスチャンに手渡した。なんだろう、薬が入っているのかな。
「今回は誰が行く」
普通に今回はって言う。やっぱり全然珍しいことではないみたい。
だけど使用人たちはみんな怯えてセバスチャンから視線を逸らしている。当たり前よね。
「私が行きます。その中身を飲んでもらえばいいんですか?」
「なりません奥様! これは我々使用人の役目です。奥様がもしお怪我でもなされたら旦那様が深く傷つきます」
セバスチャンが慌てて首を振り、両手を出して私を止めようとする。ここまで取り乱すセバスチャンを見るのは初めてだ。
「私が怪我をしたら心を痛めるけれど、使用人なら痛めないとでも言うのですか? ヴェール様はそういうお方ですか?」
「奥様はこの公爵家のお世継ぎを産まれる方、我々と違って替えがききません」
どうだ、正しいことを言ったろうと思ったのに、流石公爵付きの執事は頭の回転が速い。口で争ったら全然勝ち目がない。というか私に全然手札がない。
「大丈夫です。昔、大型犬を飼っていたことがありますから!」
因みにこれは前の世界での話。大丈夫、犬っぽい獣だったから要領は似てると思う。あ、いや熊かな……とりあえず猫科ではなかった。
そんなことはともかく、私は勢いで押し切るべく、近くにいたメイドに声を掛ける。
「シーツを一枚もらえますか。ボロくてダメになってもいいものを。あとは盾……木とかなるべく軽いものがいいです」
右腕に盾と、手の中に小瓶。左腕に裂いたシーツをぐるぐる巻きにして、もし噛みつかれても牙が腕まで通らないようにする。
なるべく盾なんて使いたくないけど、ヴェール様がどんな態度を取るか分からないので保険だ。
まだセバスチャンが止めようとするけれど、私は一歩も引かず、準備してもらっている間に小瓶の中身が強力な睡眠薬であることまで聞き出した。
「ヴェール様、リアナが会いに行きます! 大人しく待っていてくださいね!」
大きな声で話しかけると、低い唸り声が返って来る。聞いてくれていることに少し安心する。
暴れるのもやめて静かなので、どうかこのままスムーズにいってほしい。
「行きます。私が入ったら直ぐにドアを閉めて下さい」
「……リアナ様、どうか旦那様をよろしくお願いします」
ドアを開けた瞬間を狙っている場合もあるので、ゆっくりと静かに開けて僅かな隙間から周囲を窺わせてもらう。
どこにいるのかと視線を前後左右に動かすと、姿は見えないけれど奥の方から唸り声が聞こえてきたので、そっと中に入った。
心臓の鼓動が全身に伝わるほど強く打ちつけている。使用人の前では強がってみせたけれど、やっぱり怖いものは怖い。手足が震えて座り込みそうになるのを叱咤して、静かに深呼吸してから声を掛けた。
「ヴェール様、リアナです。大丈夫ですか」
机が倒れ椅子が破壊され、絨毯も布団もボロボロだけれど、それほど被害は大きくない。
今回みたいな事故が起きた時の為に、家具を最小限にしているみたい。だから本の沢山収納されたヴェール様のお部屋と寝室は離れているのね。
部屋の奥へ向かうと、黒く禍々しい瘴気が立ち昇っているのが見えた。ベッドの脇で体を丸めて唸り声を上げている。
「ヴェール様」
「お辛いですよね。ずっと一人で耐えて来たんですね」
これ以上近付いたら、飛び掛かられた時に逃げられない。だけど近付かなければ薬を飲ませられない。
獣はこちらの感情を鋭く読み取る。私が怖がればヴェール様を怖がらせてしまう。だからとにかく……警戒心を持たれないように。
「ヴゥウウウウ……リ……リ……」
「リアナです。大丈夫、体が楽になるお水を持ってきましたよ」
一歩一歩近付きながら、盾を外して驚かせないよう静かに床に置く。
今はヴェール様としての意識もあって落ち着いているように見える。だけどこの状態がどれだけ続くか分からない。再び意識が消えてしまう前に睡眠薬を飲ませたい。
そうほんの少し緊張が緩んだのと同時に、焦った気持ちあったのは仕方ないことだと思う。
蹲ったままこちらを見ようとしないヴェール様の、金の体毛に覆われた体に触れようと手を伸ばす。体に触れるには、体中から湯気のように立ち昇る瘴気にも触れることになるけれど、そのことについては何も考えていなかった。
指先が瘴気に触れた瞬間、頭の中で脳が粉砕されたような衝撃が走った。
「っ頭が……! うっ、おぇっ……」
突然酷い頭痛と吐き気が同時にやってきて、思わず手を引いて後ずさる。
気持ちが悪くて倒れ座り込みそうになるのをなんとか耐えて、シーツでぐるぐる巻きになった左腕で口元を覆う。目を開けていられない程頭が痛む。
瘴気に触れた右手の指先に焼けるような痛みが走るので、原因がそれであることは明らかだった。
「まさか、ヴェール様はこの痛みと苦しみの中にずっと……?」
「グルルルルル……ウウウウ……」
「いっ……」
頭を激しく揺さぶられるような痛みによろけてしまうけれど、ここで自分が倒れるわけにはいかないという使命感で踏ん張り続ける。
この瘴気は、正しくヴェール様が国中から集めた負の感情なんだ。体内に溜めた正気を出し切ることで浄化が完了するということなのかもしれない。
「ヴェール様、お水ですよ」
どれだけ頭が痛くても、気持ち悪くて息が苦しくても、これは病気じゃない。死なない。耐えろ。こんなのヴェール様の辛さに比べたらなんでもない。耐えろ!
生理がいくらきつい日だって、何でもない顔して電車通勤してたじゃない。
「リア……ナ……」
「お口を開けて下さい」
笑顔で言うと、ヴェール様は意外にもちゃんと言葉を理解して、こちらを向いて口を開けてくれる。物凄くちゃんとした獣の口だ。やっぱり犬系だと思う。
昨日浄化した分、今日はそれほどでもないのかもしれない。私が安心して睡眠薬の入った小瓶を見せると、その途端にヴェール様の態度は急変した。
「グアァアアアアヤメロオ!」
「何もしません、大丈夫です! ヴェール様!」
「サワルナ、チカヨルナァアアア!」
しまった、きっと今までにもこうして騙されて、睡眠薬を飲まされたことを覚えていたんだ。ヴェール様の中に強制的に意識を失う事への恐怖が刷り込まれてるんだ。
ああ、私はなんて愚かなの。ヴェール様の意識があるからと油断した。瓶なんて見せないうちに口の中に突っ込んでしまえばよかったものを。
嫌がるヴェール様が暴れるので、咄嗟に左腕を前に出して体をガードする。怖くても目を閉じちゃダメ、しっかり動きを追わなくちゃ。
「あっ」
噛まれた! けど腕までは届いてない。
「セバ……ナイ……ダレダ」
「リアナですよ。あなたの妻です」
「ツマ……リアナ……」
顎に力を入れて噛みついた腕を骨まで砕かんとするヴェール様に、私は再度名前を名乗る。分かって、私は敵じゃない。
牙が何重にも巻いたシーツを破ってくる。おまけにこの近距離で浴びる瘴気はいくらなんでも耐えられない。このまま私が倒れれば、猛獣の檻に落ちた憐れな子羊そのものになってしまう。
それだけは出来ない。私が怪我をしたらヴェール様が悲しむ。
「ヴェール様、大丈夫、怖くないですよ」
噛まれていて結果的に助かったかもしれない。その大きな口の隙間に右手を突っ込んで、瓶の中身を奥へ流し込んだ。
ごくん、と喉が大きく上下に動く。よしっ!
「ナ……リ……」
すぐに噛む力が弱まって、私の腕から口を離すと、上半身をグラグラと揺らした後そのまま床に倒れて寝息を立て始めた。
暫くの間起き上がって来ないか距離を保ったまま観察して、動きそうにないことが判断出来てから距離を取って座り込んだ。
ぐしゃぐしゃと髪を掻き交ぜて、膝の中に顔を埋める。感情も思考もぐちゃぐちゃで、何をどう考えて受け止めたらいいか分からない。もう使用人を呼ばないといけないのに、泣いてしまいそうだった。
「こんなの……酷過ぎる……」
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