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母の口が耳まで裂け、二つあった目は一つに凝縮された。
コウは呆然とその場に立ち尽くす。
「お母さん?」
「ぼ、ぼ、坊や……愛してる。もも、もっと、あなたの愛を喰べさせて」
胸が左右にぱくりと割れて、緑色の胃液が溢れ出す。
中から伸びた赤黒い触手がコウの頬に触れ、焼けるような痛みが走った。
「お母さん……」
コウは何度も呟いた。
母の腕が伸び、抱きすくめるように胸の穴へコウを押し込もうとする。
その時──一陣の風が吹いた。
母の体が真っ二つに割れて、視界が開ける。
刀を持った男が、母の向こうに佇んでいた。
「おじさん、誰?」
「ただの通行人だ。怪我は……大したことはないな」
男は懐から薬缶を取り出すと、コウの頬に軽く擦り込んだ。
痛みが風のように溶けていく。
「お母さんが、お化けさんになったんだ。本当のお母さんは、どこなの?」
「もういない。この愛化けはかなり育っていた。おそらく、数年前には発症していたはずだ」
「じゃあ、僕がお母さんって呼んでたのはお化けさんだったの? お化けさんは僕を喰べようとしてた。これまでいっぱい僕をぎゅってして、好きって言ってくれた。それは、全部僕を喰べるためだったの?」
「……そういうことになる」
コウは大声で笑い始めた。
男は一瞬目を丸くしたが、コウの頬に流れる涙を見て、眉を寄せた。
「おじさんは、お化けを倒せるんだね」
「愛化師だからな」
「それ、僕もなる」
「やめろ、碌でもない仕事だぞ」
「もう碌でもない人生だよ」
間髪入れずに答えれば、男は口をつぐんだ。
「僕、お母さんを大切にしたかったんだ。たった一人の家族だから。でも、とっくにひとりぼっちだった。だからもう、何だっていいんだ。お母さんを連れて行ったお化けを倒せるなら、それで」
「……弟子はとらん。麓の村で面倒を見てもらえ」
男は踵を返し、コウはその後を追っていった。
男は足を緩めなかったが、早めることもしなかった。
男の名前はヨナといった。
立ち寄った村で誰かがそう呼んでいたのだ。
行き先は決めず、人里が見えればふらりと立ち寄り、また離れる。
それがヨナの日常だ。
コウは常に息を切らしながら、彼の背中を追いかけた。
全身筋肉痛で、時に道端で倒れることもある。
幸運なことに、ヨナは度々丸太や手頃な石に腰掛けてじっくりとキセルを吸う癖がある。
草葉の燃える香りが漂ってくると、コウは這ってでもヨナとの距離を詰めた。
ヨナは自然に関する知識が豊富だ。
彼は必ず雨が降る前に大木や岩穴へ避難する。
それは定期的に西の空を確認し、動物や虫の動きを観察しているからだと気付くと、コウも真似をした。
ヨナは森の食物にも詳しい。
彼の食事は実に質素だ。
雑穀を炊いて塩を振り、握り飯にして食べている。
コウは自分の食事は自分で何とかしようとその辺の草やきのこを手当たり次第食べていた。
ただ、危険な食物に手を伸ばすと決まって何処かから石つぶてが飛んできて、食物を吹き飛ばす。
時々寝ている間に木の実や水が添えられることもあった。
コウは一つだけ食べずに残して、必ずどこにその木の実があったのか確認する。
そうしてコウに旅の知識が一つ二つと増えていくたび、遠く離れて眠っていた二人の距離は次第に近づいていった。
ヨナは日の出と共に目覚め、剣の訓練をする。
上半身の着物を脱ぎ、何度も素振りを繰り返す。
その後、舞いあげた落ち葉を一枚残らず切って落とすのだ。
コウはヨナの訓練を具に観察しては、彼が水浴びをしている最中に手頃な棒切れをもち、見よう見まねで振った。
ヨナはその様子を見ても特に何も言わず、ただ淡々と朝飯の準備をする。
この頃には、たまに会話を交わすようになっていた。
ヨナはお喋りではなくぶっきらぼうだったが、聞かれた質問には必ず答えた。
「愛化けを倒しに行かないの?」
「毎日遭遇するようなものじゃない。出会えば祓う、それだけだ」
「でもそれじゃあ、知らない間に、沢山の人が愛化けに喰われてるんじゃない?」
「例えそうだとしても、俺は特別な英雄でも何でもない。目の前の誰かを救う程度の力があるだけだ。それを越えたことはできない」
コウは口を尖らせる。
ヨナと一緒にいれば、いつでも愛化けに遭遇して、自分にも祓う機会が訪れると思っていた。
しかし実際は、怪我をした人を医者のいるところまでおぶったり、腹をすかせた人に握り飯を分けたりと、取り止めのない人助けをしてばかりだ。
それでも、彼はいつだって刀の手入れは怠らない。
大きな街に出た時は必ず鍛冶屋により、きれいに研いでもらっている。
最近は何か新しい武器も購入したようだ。
布切れを巻いた細身の武具を、いつも大事そうに運んでいる。
早くそれを使うところを見てみたい……そう思いながらヨナの背中を追いかけていた。
ある時、ヨナはいつもより長く一つの村に滞在した。
色んな家に出入りをしては村人の話を聞いている。
滞在時間が長くなると、必然的にコウも村の子供達と仲良くなった。
「コウは、ヨナの従者なの?」
「違う。弟子だよ」
「そうは見えないけどなあ。相手にされてない感じ」
子供ならではのはっきりとした物言いに、コウも肩をすくめるしかない。
「でも、ヨナってよくコウのことを見てるよね」
「そうなの?」
コウが目を丸くすると、皆一様に頷く。
「遠目だけど、コウがどうしてるか確認してるよ。親子みたい」
コウは反応に困って、そのまま押し黙った。
夕日が村全体を紅く染め上げる頃になると、子供達は皆家に帰っていく。
スズネと呼ばれていた少女も、踵を返して家路に着いた。
真っ赤な夕日に向かっていくその後ろ姿が、何か頼りなげに揺れて見える。
コウはこっそり後をつけていった。
スズネは父と二人暮らしをしていると言っていた。母親は病気で亡くなったらしい。
麦畑の隣に、茅葺の屋根が見えてきた。
父親が玄関前まで出てきている。
その姿を認めた瞬間、覚えのある寒気がコウの背中を駆け巡った。
本能のままに駆け出すと、父親の背中から蟷螂のような鋭い脚が数本生えてくる。
(愛化けだ!)
戸口に立てかけてあった斧を手に取り、コウは勢いよく父親だった存在を切り付けた。
一つ、二つと鋭い突起のついた脚が地面に落ちる。
父親が耳をつん裂くような叫び声をあげた。
常よりも三倍は大きく膨れ上がった目玉でぎょろりと睨みつけてくる。
父親は怒りの咆哮を上げながら残った脚をがむしゃらに振り回してきた。
コウの目は確実にその動きを捉え、攻撃を的確に交わしていく。
未だヨナの教えを得られたことはない。
ただ一緒に旅をする中で、体力も身体能力も自ずと鍛えられていた。
(いける!)
そう思い再び斧を振り抜いて、残った脚を見た時に愕然とした。
今の一撃で合計四本落としたはずなのに、二本しか減っていない。
戸惑っている目の前で、切断面から新しい脚が生えてくる。
さっと血の気が引いた。
そこからは防戦一方だった。
乱れた心は体の動きも鈍らす。
ついに斧が手から弾かれ、頬に一筋の切り傷が走った。
背後でスズネの悲鳴が上がる。
けれど、コウの心は穏やかだった。
(最後まで戦って死ねるなら、それはそれで——)
地面を力強く蹴る。
土埃が舞い、夕暮れで真っ赤に染まった脚が振りかぶられる。
朱く濡れた空に母の姿を見た気がした。
「父ちゃん!」
一瞬の出来事だった。
スズネが泣きながら父親に駆け寄っていく。
切実な横顔に、過去の自分が重なって見えた。
考えるより先に、父親とスズネの間に体を滑り込ませ彼女をきつく抱きしめる。
脚の突起が脇腹に食い込み、焼けるような痛みが走った。
その瞬間——再び、風は吹いた。
大きな脚が次々と宙に舞い、最後に胴が紅に染まった地に滑り落ちる。
コウは痛みに喘ぎならが呟いた。
「ヨナ……」
ヨナは愛化けが元の人の形を取り戻すのを確認してから、すぐにコウの元へやってきた。
コウの服を裂き、傷の深さを確かめる。
ヨナは無言で己の腹に巻いているサラシをほどき、コウの腹へときつく巻いた。
スズネは村人を呼びに行ったようだ。
ヨナは一つ大きな深呼吸をしたかと思うと、カッと目を見開いて怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! なぜすぐに逃げて俺を呼ばなかった? お前が俺についてきたのは、死ぬためだったのか!」
ヨナの感情的な姿は初めて見た。
頬が熱を持ち、脇腹とは違った痛みが胸に突き刺さる。
コウは視線を落として、もうほとんど闇に溶けた己の影を見つめた。
再び、ヨナの大きな呼吸音が耳に落ちる。
「だが、それでも……最後の判断はよかった」
「え?」
間抜けな声で聞き返し、思わず顔を上げた。
夕日は地平線へと沈み、残り日がうっすらと辺りを照らす。
ヨナの柔らかな眼差しは星のように輝いていた。
「よくあの子を守った。赤の他人を庇うという行為は、誰にでもできることじゃない。普通は逃げる」
頭に、ごつごつとした大きな手がのる。
母親の柔らかな掌とは全然違う。
けれど、同じくらいあたたかい。
「よくやった」
全身がほてるように熱かった。
その日の夜、村人の手を借りて正式に手当てを済ました後、コウは初めてヨナの握り飯を食べた。
雑穀米を炊いて塩をふりかけただけの、何の捻りもない一品。
それでも、人生で一番美味しいご飯だった。
「ごめんなさい」
何度も謝り、泣きながら食べた。
ヨナは何も言わず、コウが食べ終わるまでただ静かにキセルを吸う。
コウがヨナの歩く速度についていけるようになると、彼はキセルを吸わなくなった。
漂う白い煙が目に染みる。
包み込むような群青色の空の下、最後の一口を飲み込んだ後も涙は流れ続けた。
翌朝、いつものように鍛錬をするヨナの前で、コウは地に膝をつけて深々と頭を下げた。
「剣を教えてください」
ヨナは鍛錬を中断し、ずっと持ち歩いていた武具を手に取り、外布を外す。
それは子供用にあつらえた刀だった。
ヨナに剣の教えを請うてから二年が過ぎた。
コウの体付きはすっかり変わり、刀を持つ姿も自然になった。
今では舞い散る落ち葉を一枚残さず切り落とせる。
「基礎訓練は十分だな、あとは実践だ」
側でコウの動きを見ていたヨナは、組んでいた腕をほどき、二つに割れた葉を一枚拾い上げた。
正確に中心が真っ直ぐに切られている。
「筋肉のつき方も悪くない。このままいけば年齢と共に自然と成長するだろう……何だ?」
コウがすぐ側に寄ってきて、ヨナをじっと見上げている。
コウは口を尖らせ不貞腐れた声を上げた。
「身長差が全然縮まらない」
ヨナは一瞬目を丸くした後すぐに吹き出した。
「成長期になれば一気に伸びる。そう焦るな」
めったに笑わないヨナの笑顔を見ると、胸の中がむずむずする。
コウは誤魔化すように言葉を続けた。
「実践って言っても、そんな都合よく愛化け現れないですよね?」
ヨナの笑みが消えた。
「そうでもない」
ヨナは背を向けて炊事の準備を始める。
コウもそれ以上話しかけず、後片付けを始めた。
これまで各地を気の向くままに転々としてきたが、今は意図的にどこかへ向かっているとコウは感じていた。
街道を外れ、ほとんど道とも呼べない細道をひたすらのぼる。
コウは頭の中に地図を思い浮かべた。
この辺りは山の中腹でただ森が広がるだけだ。
にも関わらず、ヨナの足取りには迷いがない。
コウは雑多に伸びる枝木をかわしながら、黙って大きな背中についていった。
一際長く生い茂った草の葉をかき分けると、急に視界が開けてきた。
あちこちに苔や蔓がはびこる中、いくつか建物跡が見られる。
随分昔に滅びた廃村のようだ。
集落跡を通り過ぎると、沢山の墓が見えた。
どれも凸凹に土が盛り上がって、歪な石が置いてあるだけの簡素なものだ。
ヨナは墓所の前で立ち止まり手を合わせた。
コウもそれに倣う。
祈りを捧げ終わると、ヨナはさらに奥へと進んでいく。
周囲の木々が途切れ、青い海が目に飛び込んできた。
かなり高さのある絶壁だ。
目の前の光景に気を取られていると、ヨナが鋤で地面を掘り始めた。
大人がゆうに入れるほどの穴を掘ると、近くにある大きめの石に腰を下ろす。
コウは向かい側に正座した。
ヨナは久しぶりにキセルを取り出し火をつける。
ゆっくりと吐き出される白煙が空を上っていく。
「愛化けは、なぜ起こると思う?」
突然の問いかけに目を見開いたが、コウは落ち着いて巷でよく聞く話を喋った。
「愛を主食にする化け物が人間に取り憑くのだと思ってます」
ヨナが長めに息を吐いた。
煙が道に迷うようにあちこちへ霧散する。
「愛化けは、世間で言われるような怪異現象じゃない。細菌性の病気だ」
コウの肩が大きく揺れた。
久しぶりに、愛化けした母の姿が思い出される。
いつの間にか、掌にじんわりと汗を掻いていた。
「病で人間があんな風に変体するとは思えません」
ヨナは組んでいた足を下ろし、頭上に煙を吐き出した。
霧がかかったように、ヨナの顔が霞んで見える。
「そもそも、愛とは何かが重要だ。愛は形のない思念じゃない、愛は物質……粒子でできている」
「初耳です」
「普通は見えない。だから誰も知らん。それを見るのが、俺たち愛化師だ」
ヨナが真っ直ぐにコウの目を見る。
胸の奥がひどくかき乱された。
「愛化けは、愛という特殊な粒子が突然変異を起こして生じる現象だ。原因は定かじゃない。だが、いつの日か必ず解明され、薬が開発されるだろう。その日が来るまで、愛化師は愛化けを払い続ける。放っておくと、変異粒子はどんどん感染るからな……そうやって、この村は滅びた」
ヨナは集落跡に視線をやった。
僅かに細められた目には懐かしさと寂しさが混じっている。
コウは手で胸を抑えた。
動悸が激しい。
今はもう、全身で汗をかいていた。
「感染るって言いましたよね? 普通病気では、感染者との接触で菌をもらいます。愛化師は多くの愛化けと出会い死臭を嗅ぐ……師匠? どうして穴を掘ったんですか? 近くに手頃な石もあって、まるで……」
「察しがよくなったな」
ヨナはキセルを吸い終わった。
名残惜しそうに、長年使い続けた管を見つめる。
「感染と発症は別問題だ。愛化けする条件の一部は既に判明している。食われる側が変異者に強い愛を送っていること、そして変異する側も捕食対象に愛を抱いていること——だから、弟子はとらんつもりだった」
ヨナは立ち上がり、キセルを投げた。
キセルは大きく弧を描きながら、絶壁の向こう側へと落ちていく。
骨格の変わる音が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。
ヨナの背中から、鋭い刃物のような腕が何本も生える。
「剣を取れ。最後の指導を行う」
コウは一言も発することができなかった。
長い月日の習慣で、体は師の言葉に反応して刀を構えている。
ただ、唇は紫色に染まり、小刻みに震えていた。
二年の月日は伊達ではなかった。
昔民家の斧で応戦した時とは違い、コウは素早く的確に相手の急所をつく。
赤黒い血が吹き出して、ヨナの顔が歪む。
コウは攻撃の手を緩めなかった。何も考えなくて済むように。
しかしどれだけ細切れにしようとも、愛化けとなったヨナの体は瞬く間に修復されていく。
その度に、ヨナはのたうち回り、叫びながら苦しんだ。
時折頭の形まで変わりかけたが、己の爪を喉に食い込ませてでも正気を保ち、辛うじて原型をとどめた。
コウは休むことなく斬り続けたが、痛みに歪むヨナの顔と叫び声を聞くたびに剣筋に迷いが増えていく。
やがて汗だけでなく涙も流れ始めた頃には、刀を握ることすら難しくなった。
地面に硬い音が響く。
どさりと、コウの腰も地に落ちた。
その音で、四つん這いで喘いでいたヨナも顔を上げる。
「どう、した? もう、へばった、のか?」
息も絶え絶えに声を絞り出す姿に、嗚咽が込み上げてきた。
「斬れない……」
「斬れる、必ず、必要な、ことは、教えてきた、後は……」
「もう斬りたくない!」
静かな林の奥にコウの叫び声が響く。
鳥が数羽、一斉に飛び立った。
「もう嫌だ、やりたくない! こんなの、喰われる方がマシだ!」
「甘ったれるな!」
頬を流れ落ちていた涙がぴたりと止まる。
真っ赤に充血したヨナの目が、コウを射抜いていた。
「最初に教えただろう! 碌な仕事じゃないと! 愛化けの一体も斬れず、何が愛化師になるだ! 現実を見ろ!」
ヨナはもう頭以外の部分は人の色をしていなかった。
時に緑色に、時に赤黒く……形こそまだ人に似ているが、もう立派な化け物だ。
「愛化師の剣は殺すためのものじゃない、人を病から救う剣だ。だから、死体は人の姿に戻る。俺を——」
ヨナは一度言葉を切り、頭を抱えた。
近くの石に自ら頭をぶつけ割りながらも、己を取り戻す。
「俺を人として故郷に眠らせれるのは、お前だけだ」
コウは心臓が握り潰されたようだった。
震える声で、師に問いかける。
「なんで、そんなに苦しむの? どうして、そんなに耐えられるの? 楽になればいいのに! 俺じゃなくったって、ヨナを斬れる人はいるのに!」
ふと、ヨナの目が優しく細められる。
「それでは、お前を傷つける」
コウは息を呑んだ。
頭の中に、ヨナと過ごした日々が駆け巡る。
ヨナの歩く速さについていけず、派手に倒れた日。
靴も服もボロボロで、朝起きると新品が用意されていた日。
初めて二人で並んで握り飯を食べた日。
奇跡的にヨナに一撃をくらわせた日──。
一つ思い出すたびに、胸の奥の空洞に光る金砂が溜まっていく。
ついに心器は一杯になった。
金砂は宙を漂い始め、一つの道筋を作っていく。
目に見えているわけではない。
──ただ、そこに『在る』と感じる。
コウは地面に転がった刀を手に取り、立ち上がった。
刃を鞘に納め、居合の姿勢をとる。
ヨナも立ち上がり、コウと向き合った。
二人の間に土埃が舞う。
「いい面構えだな」
血と汗で濡れた指で、ヨナは己の首に線を引いてみせた。
「狙え」
コウは姿勢を低くして右足に重心を傾けた。
強く地面を蹴り、その勢いを手に乗せて抜刀する。
剣は金砂の描く道筋を寸分の狂いもなくなぞっていく。
そして、風は吹いた。
毒々しく染まった体から、ヨナが落ちていく。
その顔は、笑っていた。
兄だった何かが少年の前に立ちはだかった。
顎まで開いた口から紫色の唾液が落ち、少年の頭を濡らしていく。
あ、死ぬな。
少年は妙に冷静だった。
優しくて、格好良くて、大好きだった親同然の兄。
彼に喰べられるなら、それもいいかもしれない。
少しでも長く兄のことを見ていようと、瞬きすら我慢する。
太くなった両腕が少年の両肩を掴んだ。
指がずぶりと肉に食い込み、大きな口が頭を飲み込もうとしたその瞬間──。
(風……?)
気付けば兄だったものは地に崩れ落ちていた。
刀についた血を拭う長髪の青年が、少年の目に焼き付いた。
コウは務めを果たすと、村人に少年の保護を頼み、すぐその場を後にした。
化け物とはいえ、殺生をすれば周囲の視線が重苦しいものになるからだ。
ただ、時々違う反応をする人もいる。
今回はなだらかな峠を越えるところで、小さな気配が追ってきた。
振り向くと、先ほど助けた少年が息を切らして走ってくる。
コウの前までくると、息を整えることもせず土下座を始めた。
「頼む! 俺を弟子にしてくれ!」
どこかで見たような光景だ。
コウは少年を全身をさっと確認した。
愛化けの体液で汚れた服、へこんだ腹……時間的にも昼食前だっただろう。
コウは屈んで目線を合わせると、少年の肩にやさしく手をのせた。
「とりあえず、体を綺麗にしてご飯を食べよう。先のことはそれか考えても遅くないよ。碌でもない仕事だからね」
着替えた少年にあたたかい握り飯を差し出すと、彼の顔が緩んだ。
少年が泣きながら握り飯を食べる間、コウは適当な石に腰を下ろしてキセルを吸う。
ゆっくりと白い煙を吐き出すと、恩師の顔が思い出された。
そういえば、最近墓参りに行っていない。
少年の横顔を一瞥して、そろそろ自分も穴が必要かと考える。
愛化師である以上、死に方は一つだ。
すっかり慣れた苦みある煙を体内に巡らせながら、遠い昔に師と並んで見た青く美しい海を思い浮かべる。
微かに、潮の香りが漂った気がした。
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