中国小紀行1986

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中国小紀行1986 上海がえりのリル、四十歳  「この機会に一度行ってみたら?」と中国行きを妻に勧められたのが、出発の三週間ほど前のことである。「この機会に」というのは、こんどの旅行団の団長が私の父であり、おまけに母まで行くということを指している。父は高槻市日中友好協会の理事長を務めていて、高槻と友好都市提携を進めようとしている中国の常州市へ、人的交流実績をつくり、両市の提携ムードを盛り上げるために行くという。だが、それだけならむしろ私の中国行きを思いとどまらせる要素でしかない。私は京都市民で、高槻には住んだこともないし、40歳にもなった男にとって、両親との旅行というのは面映ゆいものだ。     しかし、私を中国へひきつける要素がひとつだけあった。常州、北京とともに今回の訪問先に入っている上海が、私の生まれた街だということである。  伊勢の零細農家の次男坊であった父は、大陸に夢を馳せ、昭和11年より県費留学生として上海の東亜同文書院に学んだ。卒業後はそのまま現地の華中鉱業なる蛍石を掘る会社に勤めた。一方、同じ伊勢の小さな旧城下町の商家の娘であった母は、写真の父を相手に結婚式を挙げ、昭和19年に単身、大陸へ渡った。私が生まれたのは翌年、敗戦直後の8月26日である。当時の上海特別市老靶子路にあった同人会病院で、早朝、爆音の轟く中で生まれた。ベッドから窓越しに見上げる澄んだ空は、重慶から進駐してくる国府軍を運ぶ輸送機に覆われ、暗くなるほどであったという。  昔話などめったにすることのない父母が、上海の生活にいては、時折ひどく懐しげに話して聞かせた。生まれた翌年には引き揚げているので、私にはなんの記憶もないのだが、自分の生まれたところとして、「上海」という地名は、幼いころから特別の響きをもっていた。人に出生地をきかれて、「シャンハイ」と答えるとき、私はいつも幾分か得意であった。  わが家にはよく父の同文書院時代の友人たち、とりわけかつての柔道部の猛者連がやってきた。彼等と特大のすき焼き鍋をつつきながら、互いに名を呼び捨てにしあい、学生言葉で議論に花を咲かせているときの父は、心の奥底から蜜が溶け出してくるような表情をして、本当に楽しそうだった。かつての猛者たちは、父母が時折洩らす噂話によれば、引き揚げ後うまくいっている人は少なく、なんでもない中小企業のサラリーマンになった父が一番ましなほうなのだった。その不器用な生き方を、豪傑笑いする大男たちの広い背中に感得するほどおとなではなかった私も、彼らが、孤独を寄せ合うようにして集まり旧交を温めるそのひとときを、この上なく愛していることだけは感じとっていたと思う。彼らは私に優しく、グローブのような掌で頭を撫でては、「上海がえりのリル」などとからかい、可愛がってくれた。  その「上海がえりのリル」も、もう40歳になったのである。自分が生まれたという上海がどんなところなのか、一度は行ってみたい、と思っていた。  「もうお義父さんたちも齢なんだし、親子三人そろって行ける機会も最後になるかもしれないから、一緒に行って生まれた家なんか教えてもらったら?」という妻の示唆は、幾らか私の心を動かした。  こうして、なお中途半端な気持ちで、旅行代理店の催促に背を押されるようにして申し込み、「第三次高槻市日中友好協会訪中団」の一員となったのである。  昭和61年4月28日、私たち17名は、大阪国際空港から中国民航に乗り込み、上海に向けて出発した。同行者のうち中国語が堪能なのは父とO氏の2人だが、戦前戦中に軍人等として中国に居たことがあって少し喋れる人が3人、さらに高槻市で開いている中国語教室の生徒が私の母を含む4人いて、開室以来一年の成果を携えている。  中国語教室は、高槻市日中友好協会が市から駅前ビルの会場を借り、京都大学の大学院に留学中の中国人女性を先生に頼んで、週2回夜間に開いているのである。父はここでボランティアとして助手を務め、教える方にまわっている。年輩の人が多く、昼の勤めを終わってから勉強しようという人たちだから、みな驚くほど熱心だという。母もこの教室で習い、家に帰れば帰ったで予習復習の出来具合を父にためされ、ちょうど四十年前の新婚時代に上海で父にしごかれたのとおなじ光景を再現しているのである。  教室は市民レベルの交流のベースとなる人材を育成する目的で開いており、当然今回の旅行ではその生徒たちに期待がかかっていた。むろんその「期待」はあからさまに本人たちに明かされていない。訪中団としてはごく一般的な観光旅行団体と同じ程度の団体行動を要請するのみで、ほかに個々の団員への拘束は一切なく、私のような「日中友好」への無自覚分子も、単なる観光旅行気分で参加できたのである。しかし、私は父が出発前、手塩にかけた愛弟子の晴れの初舞台をひかえた師匠のように、「彼等がどこまでやってくれるかな」と団員名簿を手に目を細めていたのを思い出す。 いつか来た道  上海の虹橋空港には、対日友好協会上海分会の徐さんと張さんが出迎えに来てくれていた。この二人が上海、常州、北京と全旅程に付き添ってくれるのである。バスに乗ると、早速、張さんが自己紹介と市内のガイドを始めた。達者な日本語である。  バスは長寧区を東へ走り、建設中の高層ビルが林立する一角を左手に見て回り込む。  「ここは各国の公館が集まる領事館区で、将来的には副都心になるところです。」と張さんの解説が入る。確かに完成時には霞ヶ関や新宿副都心にも匹敵する高層ビル街になるのかもしれないが、いまはだ荒涼としている。団員たちがカメラを向けると、張さんが「10年後にはがらっと変わっているでしょうから、いまお撮りになった写真は、将来、週刊誌に高く売れますよ」と言い、車内がどっと沸く。  延安西路を東へ、都心部へ近づくにつれて、私は外の光景に惹きつけられ、思わず身を乗りだした。とりたててこれという珍奇なものが目についたわけではない。ただ、並木越しに見える「弄堂(ワンタン)」(路地)の家並み、その黑ずんだ漆喰や赤煉瓦の壁、軒から突き出た物干し竿、雑貨や食べ物を売る小さな店々、中身の詰った重そうな買い物籠を下げて行く地味ななりをした人々、それらの光景に、私は不思議な懐かしさを覚えたのだった。  「そりゃあ、あんたが生まれた街やから、無意識に覚えとるのかもしれんよ」と母は半分からかうように言う。  だが、私が眼の前の光景から喚び起こされる記憶は、三十数年前の日本の光景だ。細部は違っても、全体の印象にどこか似通ったところがある。どうやら歴史の各段階は、それぞれ固有の雰囲気をもっていて、個々の要素を分析的に見ればまるで異なる文化に、どこか共通する表情を与えているのではないか。  私たちの泊ることになっていた華山飯店へ荷物をおくと、あとはバスで市内見物となった。夕方4時半を過ぎてラッシュアワーにかかった。行きちがう二輌連結バスはみな満員、道路は銀輪と人の波に埋め尽されんばかりだ。南京東路を東へ突き当ると、すぐ先で長江につながる黄浦江に面する。小舟からおそらく一万トンもあろうかという大型船までが、泥水と言ってよい、濁った、しかし豊かな水を湛えた緩やかな流れを、頻繁に上り下りしている。私たちはそこでバスを降り、江岸の散策公園に立って行き交う船を眺め、写真を撮りあった。気温は17、8度前後で、江風が心地良い。私たちが写真やビデオを撮っていると、たちまち周りに人だかりができた。そのほとんどは上海人ではなく、地方からのお上りさんらしい。  この一角に、父が勤めていた会社の建物が残っているという。しかし、父母の指さす高層ビルは二転、三転した。「まわりが変わってしもたからわからへんねえ」などとつぶやいている。戦前には最先端の技術とデザインを誇る建物であったに違いない装飾的なファサードをもつビル群が、今は現代的に整備された大街路に面して、この世界最大級の都市に古風な味わいを与えているのである。  ところで、四川北路付近にあったという父母と赤ん坊の私が住んだ家や、私の生まれた同人会病院のあとには、残念なことに今回は行けないことになった。招いてくれた側の事情で、もともと少なかった上海滞在日数がさらにきりつめられ、夕方着いて、翌日の昼には列車で常州に向かうという、ほんの通りすがり程度の訪問になってしまったからである。そのため、二日目は玉佛寺を見物後、ガーデンブリッジのたもとにある大廈飯店で昼食をすませるともう出発であったし、到着当日はバスで市内をまわり、上海展覧館で買い物をし、黄浦江岸で降りただけで静安賓館での招待の宴席に臨んだのである。 「上海烤(シャンハイダ)鴨(ック)」の心意気  私たち17人と私たちをこの旅行に招いてくれた対日友好協会上海分会側の5人が二つの円卓を囲み、歓迎の夕食会となった。白酒の乾杯に先立って分会の王副会長が立ち、歓迎のスピーチを始めた。上海市民は心から皆さんを歓迎するという趣旨に始まって、日中友好の意義に説き及ぶ、堂々の長演説だが、そのへんまではまだ良かった。次第に王氏の舌鋒は鋭くなり、張さんの明確この上ない通訳が、「二つの超大国」批判を浮き彫りにしていくにつれ、私たちの間になんとも言えない戸惑いの感じと、いやこれはお国柄なのだからと自身を納得させてその戸惑いを顔色にあらわすまいとする慎みの感情とが、幽かな相剋を演じながら広がった。  「彼等は口先だけであり、言うこととすることとが全く反対であります。私たちは彼等のような口先だけの友好ではなく・・・・」  団員はみな目を伏せるようにし、静まりかえって拝聴している。  やがて日本で北京ダックと呼ばれる「烤鴨(カオヤー)」が出てきた。王氏は私たちのささやきに応えるように微笑して、「これは北京ダックではありません。」という。「北京ダックは鴨を丸のまま出して、客の目の前で切る。しかし、この『上海ダック』は、一番おいしい部分の皮と薄肉だけをあらかじめ選んで、お客をもてなすのです。北京の人は真似じゃないかと言いますが、上海は万事このように、各地のものから、一番良いところだけをとってさらに創造を加え、優れたものをつくりあげてきたのです。」  関西人が東京に対して見せる意地、歴史的伝統に立った優越感と歴史の現在を奪われていることへの劣等感が表裏する、屈折した対抗意識に似たものが、上海人の北京に対する構えかたのうちにあるらしい。  上海は今、いわば試練の時期で、必死になってこの時期を乗り越えようとしているように見える。政治の中心が北京であるための相対的な地位の低下もあろう。ここが「四人組」の本拠地であったがゆえの傷跡も深いだろう。しかし、根本的には上海が中国全体において占めてきた特別な地位に由来する逆説的な結果ではないか。  いうまでもなく上海は中国の最重要工業基地であり、商業・貿易の中心であって、中央の財政収入に占める上海市の上納金の比重は、14.7%に及び、逆に中央の財政支出総額に占める上海市の比率は1.6%にすぎない。これを上海市側から見れば、解放後79年までの31年間の上海市の総収入の86.4%が、中央へ上納されたという。個人で言えば、自分の稼ぎの9割近くを税金にとられ、自分の生活費に使えるのは1割少々という状態である。これで人口1200万(市区部650万)の大都市をささえていかねばならないのだから大変だ。  「確かに上海は他都市に比べて都市基盤の整備に遅れをとりまいた。」王副会長は少し眉をひそめるようにして、そう認めた。「しかし、私はそう心配していません。今日、皆さんが御覧になったとおり建設は軌道にのっており、徐々に遅れはとりもどされていくでしょう。」  私たちの見た上海は確かに活力に満ちている。今遅れているとしても、その遅れを取り戻すのは時間の問題に違いない。  「なにごとも急速に事を運べば問題が生じるもので、一歩一歩着実に行うことが大切です。上海が遅れていることは事実ですが、それは長い目でみれば必ずしも悪いことばかりではないでしょう。」  王氏はそう言って微笑んだ。それは、内に長い時間尺度をもつ人のみせる、あのゆとりある微笑であった。 江南寸景  上海から常州へは列車で2時間半、新緑の麦畑や一面の菜の花(油菜)畑のなかを行く。至るところにクリーク(水路)が走り、その水を引く小さな人工池では魚が跳ね、家鴨が遊んでいる。クリークには古びた舟が浮かび、岸辺の緑の枝々がその屋形にしなだれかかる風情は、そのまま一幅の南画に収まりそうな「正是江南好風景」(杜甫)である。  広軌鉄道のため車内は広く、各窓側に二人ずつテーブルを挟んで向かい合う四人掛けの席があって、テーブルには鉢植えの花が置かれている。一般の中国人が乗るのは座席の硬い「硬座車」、私たちが乗っているのは快適な「軟座車」と、車両が分かれていて、同じ車両に乗っているのは蘇州へ行く別の日本人団体だけである。やがて乗務員が回ってきて、大きめの蓋つき湯呑に熱い茶を注いでくれる。たっぷり茶の葉が入った湯呑に熱湯を入れるだけで、茶こしがないから飲むと茶の葉も口に入ってくる。隣席の父が、こうやって飲んだものだ、と言って、蓋をしたままその蓋を少しずらすようにして葉だけ押さえ、すするように飲む。私もやってみるが、熱い陶の膚が唇に触れてうまく飲めない。悪戦苦闘してやっと半分ほど飲んで、斜め前の席の徐さんを見ると、蓋をとってごく普通に飲んでいる。どうやら舌でうまく葉を退けているらしい。蓋はやはり冷めないように置くためのものなのだ。父の教える「中国式」の中には、父たちが学生時代に面白がって発明した方式も随分あるのではないか、と私は少し疑り深くなった。  鉄道沿いには延々と、実に几帳面に等間隔で、同種の樹木が植えてある。徐さんにきくと、落葉杉だと言い、線路を風から守るためのものだが、大きくなれば間引いて、炭坑の坑道の支柱に使ったりする、と説明してくれる。あとで調べると、中国原産の落葉高木で「生きた化石」といわれるメタセコイア(アケボノスギ)らしい。私の生まれた1945年に、湖北省と四川省との境の奥地で発見されたもので、枕木、器具、建築、家具、公園樹に用いるとある。直立する樹の姿と若緑の細かな葉が美しいが、生長して視界をさえぎるのは味気ない。  蘇州の近くには、薄紫の房状の花を上向きに沢山つけた桐の木がそこかしこに見えた。上海でも、常州でも、北京でも、家々の脇に高く広く枝を広げ、遠くから見ると糸をたっぷり巻いた太い紡錘形にみえる花房を、そのひろげた枝のいたるところに直立させているのがみられたが、蘇州辺りではことに目についた。徐さんは「包桐」と手帳に書いてみせ、「パオトン」と」声に出しておしえてくれた。  「ああ、桐ね。昔は日本でも女の子が生まれると桐を植えて、その子が大きくなる頃には桐も大きくなるから、切って、箪笥にして嫁入りに持って行かせたのよ」と母が言う。こちらでも必ず人家の傍にあるのは、同じ用途をもっていたからだろうか、と私は思った。  蘇州は春秋時代に呉の都となって以来の古都で、明代には世界一の大都市であったという。都人の常として、優美・洗練の美徳をもつ反面、嬴弱の難があるのは蘇州人も例外ではないらしく、文化大革命以後の小説にも「彼女は一人娘で、その上蘇州人、生来が軟弱で多病だ」という一節が見られる。(徐明旭「調動」1979.邦訳:田畑光永「転勤」)  その娘は、韓小雯(ハンシャオウェン)という名があるのに、いつも故郷の母を恋しがって泣いてばかりいる柔弱な娘であるために、紅楼夢の悲恋のヒロイン林黛玉の名をもじって「韓黛玉(ハンタイユイ)」と呼んでからかわれているのである。江南の穀倉地帯を背景とし、絹織物で栄えた蘇州の素封家では、母の言うように娘が生まれると桐を植え、娘と共に生長する桐で箪笥をつくって、嫁入りに持たせたのかもしれない。その娘はきっと「韓黛玉」のような箱入り娘だったに違いない。  私たちは旅行中いたるところで、質素な身なりの両親たちとは対照的に愛らしく着飾り、両輪と祖父母にかわるがわる抱かれ、四人の愛を一身に集めている子供らを見た。私の父がインスタントカメラを持っているのを見ると、その祖父母らは争って孫を抱き、一枚撮ってくれとポーズをとるのだった。それを見て私は、将来の中国十億の民は、人口は同じでも、その質が今とはまるで違ったものになるだろうと思わずにはいられなかった。言うまでもなく、「一人っ子政策」の帰結であって、これが無数の「韓黛玉」を生み出さなければ幸いである。 櫛と運河  上海と南京との中間に位置する常州は、まだ日本ではそう知られていないが、文書記録では2500年余の歴史をもつ古い都市である。現在は管轄下の近隣県を合わせて人口302万、都市部だけでも50万の規模で、一人当りの工業生産額・財政収入・労働生産性では全国69の同等都市の中で一位という先進的な工業都市である。  私たちは宿舎「白蕩賓館」で荷物を置くと、早速、1500年の歴史をもつというこの街の代表的な特産品、梳箆(櫛)の工場見学に出掛けた。つげ、竹、牛の肋骨等々様々な素材による櫛を作っているという。案内された作業場は、ブローチはペンダントなどになる小型の櫛を作る最終工程らしい。十六、七の女工さんが四、五十人、教室のように机を同一方向に並べて、歯の部分を削ったり、磨いたり、焼き印を押したり、分業している。極彩色の鳥、蝶、魚や、美女、神仙等の細密画を、細い絵筆で丁寧に描いている者もある。歴代皇帝への献上品であった装飾品としての櫛の流れをくみ、現在は土産ものや輸出にあてているようだ。  無論この工場では、日常用いるもっと実用的な櫛も作っている。見学の前に会議室に案内された私たちに、工場長はここで作られる櫛が自然の素材を用いているため、いかに健康に良いかを力説した。  従業員数は400人、生産個数はねん1200万個というから、あんな手工芸的生産でどうやってそんなに沢山作れるのか、工業生産の実際にうとい私もさすがに疑問を感じていたが、後に調べてみると、この工場のために半製品の加工を請け負う市民と近郊農民は2万人にも及ぶのだという。伝統工芸なればこそではあろうが、現代的な外観をもった工場の生産力の大部分を、背後(工場外)の「人海」が支えているのは、いかにも中国らしい。  バスで往き来する度に通る橋から、隋の煬帝がつくった運河が見える。この大運河が杭州・北京を結ぶ唯一の幹線交通路であったころ、船旅の客に櫛を売る店々が運河にのぞみ、その提灯の明かりが水面に映って美しかったという。いまも常州市の400余の工場の半数は運河の両岸に位置し、貨物輸送量の6割以上が水運によるのである。先の櫛工場も、歴史的にすき櫛(「箆箕(ヘイキ)」。歯の細かい櫛)作りの職人が住んだ運河沿いの一角、箆箕弄(ヘイキロウ)と呼ばれる通りに造られたもので、運河の恩恵を充分にこうむっている。  煬帝といえば兄を退け、父を殺し、大運河完成のために百余万人もの民衆を強制労働にかりたてた人物で、高校のころの歴史で習った印象も良くはなかったが、彼としては全国統一と各地の交流による活性化のためになんとしてもこの大動脈を造りたかったのだろう。民衆の血涙をしぼったその事業は正当化されないかもしれないが、いまその運河が本当に民衆のものになり、十全に活用されているのは、歴史のイロニーというべきか、あるいは歴史の救いというべきか。 様々な「老朋友(ラオポンユウ)」  常州に着いた日の夜、私たちは宿泊ホテルである白蕩賓館で、同市の対外友好協会分会主催の招宴を受けた。曹副市長、宋人民代表大会副主任(前副市長)、樊外事弁公室主任、周対外経済貿易弁公室副主任と私たち団員、上海から付添ってくれている徐さん、張さん、それに常州で通訳を務めてくれる蒋さんが二つのテーブルについて、豪華な夕食となった。例によって歓迎のスピーチ、感謝の意を表するスピーチ、盛んに「老朋友(ラオポンユウ)」という言葉がとびかう。中国では一度会えば二度目からはもう「老朋友」、文字通り訳せば、古い友達、ということになるのだという。すでに常州を訪れること五回目の父は言うまでもなく、来日のとき父の案内で拙宅へ半時間ほど立ち寄ったことのある宋さん、樊さん、周さん、蒋さんにとっては、私さえすでに「老朋友」である。  父は上海で文字通りの「老朋友」に会っている。四十年前、父が上海で日本語を教えたり、なにかと面倒をみていた若者の一人が、ホテルまで訪ねてきてくれたのである。長いブランクを経て父の日中友好のための活動が再開されたきっかけのひとつは、その「若者」たちが領事館を通じて父をさがしあて、文通が始まったことにあった。父母は私にもしばしば、さわやかな印象を残したその好青年たちのことを、懐かしそうに話し、中国で文化大革命などの混乱が伝えられるたびに、「今頃、あの子たちは、どうなっているかなあ」と遠く彼等の身に想いを馳せていたものだった。  彼等は父の勤めた会社の労働者であった。父は相棒と二人で上海郊外の学校を借り、五十人の中国青年と六カ月間起居を共にして、社員教育をかねた日本語教育をおこなったのである。彼らは18から20歳の、全員が中学を出た、当時としては極めて優秀な人材であったし、父もまだ二十代半ばの若さで一途であったから、弟のような気持ちで接したという。彼等の半数は父とともに武義の鉱山まで行って苦労を共にしており、戦闘体験のない父にとっては、彼等が戦友のようなものでもあった。  敗戦時の混乱のうちに彼等と別れた父は、いつか世の中が落ちついたらまた会えるという希望を捨てていなかった。実際、自分たちの生活がようやく落ちついたころ、捜そうと考えたこともあったらしい。が、「彼らは戦争中、日本との関係が深かったから、新中国になってからそれを隠して暮らしているかもしれない。いまの中国の政治状況では、こちらが捜すと、彼等の迷惑になるかもしれない」と、実行には移さなかった。  そのうちに文化大革命の嵐も過ぎ、中国が現代化を掲げて門戸を開放する気配を見せたころ、向こうのほうから父を捜し当ててきたのである。彼等は父の教えた日本語を忘れず、たどたどしいながらも、なんとか理解できる日本語の手紙を送ってよこし、父との文通が始まった。  かつての紅顔の美少年も、今は60歳に手の届こうという熟年世代で、少し若く見える父とは、もう年齢の上下もわからない。彼のやや老けた容貌は、テレビで見る中国残留日本人孤児の同じように老けた顔かたちと重なって、中国における過去40年という時間の質を、私に感じさせた。顔色にやや生気を欠くように見えるかつての父の愛弟子とつやつやした顔色の父、日本人であるがゆえに辛酸をなめたという、その苦しみを顔のしわにきざんだかに見える残留孤児とその横で手をとっている家族の年齢のわりには若々しい容貌の対照は、それぞれの側の経験した時間の質の違いをあまりにもあからさまに示して、無惨な印象を与えた。  それは実際、他人事ではなかった。孤児たちはまさに私の世代なのである。「昭和20年生まれ、40歳」と読み上げるアナウンサーの声に、私は何度はっとさせられ、テレビ画面の自分とは無関係な人の顔をつくづく見つめさせられたことだろう。私もまた、一歩間違えば、入れ代わって画面の人となっていたかも知れないのだ。 「おしん」と「アトム」  白酒、老酒の幾度にもわたる乾杯、とりわけ杯をひっくり返して、中に一滴ものこっていないことを示さねばならない中国式乾杯に閉口しながらも、揚子江流域の田や小川でとれるという田鰻(鱔魚)だの、鱗ごと食べる鰣魚だのという珍しい美味に舌鼓を打つ。通訳を介してのまどろっこしい会話も、盛り上がる雰囲気のなかでは苦にならない。  「大変なごちそうだけど、きっと高いんでしょうねえ」という女性団員の、誰に訊くでもないつぶやきに応えて、張さんが鰣魚を指して言う。「この魚は、私の給料で半分しか買えません。」  いっせいに洩れる「ほうーっ」と言う驚きの声にさきがけて、一瞬、人々の表情をかすかな戸惑いの色が走った。しかし張さんの声は淡々としていた。「これは黄海から揚子江へさかのぼって産卵するので、南京から上海へ下ってくるときしかとらない珍しい魚で、いま一キロが250元もします。」  1元は円高の現在(私たちの旅行中)55円前後であった。33歳の張さんの月給は100元なのである。張さんによれば、一キロの値段でいうと、豚肉が3元、牛肉が8元、鰱魚(揚子江流域などでとれる淡水魚)が4元という。そんな中でキロ250元の魚を、張さんの月給の倍ほど、私たちがぺろりと平らげるのである。  まだ特別な招待者以外は自由に身銭を切って中国へ行けなかったころ、日本の或る作家は、「いま社会主義国を訪れることは、そうでなくても発展途上にある」苦しいその国の財政に、万分の一といえども負担をかけることであり、国家の搾取を通じて、ひいてはその国の人民に負担をかけることだ」として、自前の旅行ができるようになるまで行かない、と述べたことがある。私は、その論理に多少の飛躍は感じたものの、歯をくいしばって荒れ果てた国土の建設をすすめる中国、自国の侵略したその国へ、招待によって観光旅行に出かける暢気な文化人とは一味違うその屈折した意識に、かつてのマルクス主義者としてのその作家のこだわりを見て、好感を覚えたのであった。  いま私は、彼のいうように一つの国、一つの社会の大状況が、直接個々人の倫理に結びつけられるべきものだとは思わないが、私たち団員が豪華な招宴の席で感じた戸惑いの根源には」、あの作家の指摘した目に見えない構造があることは間違いない。  いま日本人が中国へ行けば、物の値段が安く感じられる。同行団員の中には、持って行った大きな旅行鞄とは別に、さらに大きな革製トランクを中国で買い、それを土産もので一杯にして帰った「豪傑」もあった。事実上望だけの現金を持ち出せる時代である。日本政府は、外貨減らしのために彼の行為を歓迎するだろう。しかし、一般市民の心情はまた別であるにちがいない。  夜、ホテルの一室にもどってテレビをつけると、NHKで放映して日本でブームをまきおこした「おしん」を中国語に吹きかえてやっていた。「忍」の一字のおしんに託された古い時代の日本人の心情こそ、今歯をくいしばって現代化をやりとげようとする中国の人々に一番ピッタリくるものなのかもしれない、と」私は思った。この「おしん」と、夕方近くに放映していたコンピューター講座は、科学技術への素朴な信頼をもとに楽観的な未来像を描く日本製アニメ「鉄腕アトム」が80年代末から1年間中国で放映されて大人気を博したという話とともに、現在の中国の人々の、国家・社会と一体となったポジティブな側面での心情を象徴しているように思われた。 熱烈歓迎  二日目の常州では、雨の中を午前中はテープレコーダー工場、郊外の新しい住宅団地「清潭新村」、体育館、午後は弘法大師が参学したという唐代の天 寧禅寺、詩人蘇東坡ゆかりの艤舟亭、広大な唐代の庭園紅梅園を訪れ、最後に今回の旅行のハイライトとなった少年宮を訪ねた。  少年宮は小・中学生の課外活動施設である。門前にバスが着くと、いまや遅しと待ち構えていた鼓笛隊が一斉に歓迎マーチを奏で、花輪を掲げた少女たちが建物の入り口まで両側にずらりと並んで口々に「熱烈歓迎」を繰り返す。気恥しさをこらえて、かねて言われていたとおり、中国式に拍手をもって答礼しながら入り口をはいった。そこからは、中国語の話せる団員に一人ずつ少年・少女が付添い、手をとって各室を案内し、中国語で説明してくれる。いずれも小学校四年生から六年生くらいの、愛らしく利発そうな子である。  各部屋では、様々な学年の子が、楽器演奏、コーラス、書道や絵画、工作、手芸、コンピューター操作、卓球、バレエなど、様々な課外活動を、専門の指導員のもとに行っている。胡弓や胡琴の楽器演奏やコーラスの部屋では、わざわざ私たちのために「さくら」、「四季の歌」など日本の曲をおりまぜた歓迎の演奏と合唱をしてくれ、団員中最長老のNさんがお返しにと中国語で歌をうたって喝采を浴びる一幕もあった。また、卓球では腕に覚えのある団員二、三人が少年、少女たちの相手をした。  楽器演奏もそうだったが、書道や絵画の創作にいそしむ少年少女のなかには、一人二人、ずば抜けている子がいた。信じられないくらいうまいのである。それを見て、この施設が一般の子供たちの課外活動施設であるとともに、その中で才能を発掘し、英才教育を行なっていくための施設でもあることがわかったような気がした。  実際、少年宮は数が少ないため、誰でもいつでも利用できるという状況にはないらしい。才能と品行との両面に優れた子供が、毎週2,3回サークル活動に参加でき、それ以外の子供には、3週間に一度くらいの割合で入場の機会が与えられるという。  案内の少年少女たちは、自分が担当する団員の手をとってぴったり寄り添い、ゆっくりと中国語で語りかける。団員たち、とくに一年間中国語教室で学んだ「生徒」たちは、そのいたれりつくせりのサービスにうっとり酔ったような表情を浮かべて、彼等の可愛い声に耳を傾け、また自分の意志を懸命に伝えようとしている。その光景を羨望のまなざしで眺めながら、私は父の祈りが聞き届けられたな、と思わずにはいられなかった。 柳絮舞う北京  5月1日、郊外の新しい空港から雨の常州をたっておよそ一時間半、正午過ぎに北京へ着くと、空は晴れわたり、気温28度というもう夏の、しかし大陸らしいからりとした大気の中を、どこからともなく運ばれてくる綿毛のような無数の柳絮が舞っていた。  空港から一路、数十キロも曲折がないという直線道路を走る。両側はポプラ並木である。やがて市街地に近付くと、どこも上海と同様の建設ラッシュである。いたるところに造りかけの建物が構造をさらし、積みかけの煉瓦塀がこれから積む煉瓦とともに目に入る。群を抜いて高い建設中のビルもいくつかあって、みなホテルである。外に門戸を開いてから外国人用のホテル不足は深刻らしく、アメリカ資本との合弁でいま盛んに建設されているという。「日本との合弁はないんですか」と団員の一人が尋ねると、「日本人は儲かる事業しかやりませんから」と北京の案内役鉄さんが笑って答える。「えらいこと言われるようになったもんや。昔はユダヤ人と中国人が儲け上手の双璧と言われとったのに」隣に座った同室のHさんが首を振り振りつぶやいた。  やがて旧北京駅が見えた。母がたちまち視界を去って行く瀟洒な建物を振返りながら、「あんなに小さかったかしらねえ」とつぶやいた。昭和19年10月10日、母はその北京駅頭に一人降り立った。半年前に父の写真相手に式を挙げ、そのまま舅姑と暮らしていたが、空襲の激化でどこにいても危険は同じと、単身、大陸へ渡ったのである。関釜連絡船で朝鮮へ渡り、満州経由でようやく北京へたどりついた母は、もんぺ姿で、首に目印の包帯を巻いた異様な姿で、初めて自分の結婚した相手と会った。駅頭を往きかう人々は戦争末期の耐乏生活を強いられていた内地とは違って、みな洒落た洋服を着ていたという。何重もの羞恥に身の縮む思いであったろう母にとって、北京駅は実際よりずっと大きく感じられたのかもしれない。  そのころも今も、北京が大都市であることにはかわりない。都心部はどこも大変な人の波である。私たちが二日目から二泊した北京飯店のすぐ隣には名高い繁華街、王府井がある。団体行動の合間を見ては私たちもこの北京のショッピングセンターを散策したが、なによりもまず人の数の多さに驚かされた。妻に頼まれた刺繍やレース使い麻ブラウスだの藍の印花布だのを探しに、一般の中国人が行く店に入ると、どこも息苦しいほどの混雑で、まさに人海の中を泳ぎ渡る感じだった。私の求めるものは、驚くほど安いそういう店には見あたらず、結局外人客が殆どの美術工芸品売り場にあった。素材、図柄のデザイン、描画や染めの手工芸技術などにあらわれる最も中国的な伝統文化の遺産を活かした衣服やハンドバッグは、中国の庶民と縁遠く、美術品扱いで外国人のものとなっているのである。中国の庶民が争って買うのはもっとずっと安い、化繊の衣服であり、玩具のようなハンドバッグだ。それでもこれだけの人々がショッピングに出掛けてくるところを見れば、中国の庶民にも着実に購買力がついてきているのだろう、と私は思った。 夜の迷講義  私たちは北京に3泊した。その間に、中日友好協会を表敬訪問し、動物園でパンダを「表敬訪問」し、バスで「明の十三陵」のうち唯一発掘の完了している定陵および八達嶺の「万里の長城」を訪ね、天安門広場に足をとめ、故宮博物院、天壇公園、頤和園の内部を駆け足で見学し、友宜商店や王府井で買い物を楽しんだ。  北京へ着いた日のことである。私は誘われて数人の団員たちと夜の街へ出た。その夜だけ都心からやや西寄りに位置する燕京飯店に泊められていた私たちは、タクシーに乗って長安街とその延長であるメインストリートを東へまっすぐに走った。少し走り出して、私はビデオかせめてカメラかを持って来なかった失敗に気付いた。街路に面して立つホテル、公共施設、記念建造物等、主なビルディングのすべてに、煌々とイルミネーションが輝いている。とりわけ天安門附近は前門から広場に向き合う人民大会堂、中国革命記念歴史博物館、労働文化宮と、全身に光の衣をまとった建物が集まって、幻想的な雰囲気を漂わせていた。むろん、「労働者の国」を標榜するこの国にとって最も重要な祭典のひとつ、「五・一労働節」を祝うイルミネーションである。それも、今年はメーデーの発端であるアメリカの労働者が8時間労働をかちとったゼネストからちょうど百年目にあたり、市内いたるところにメーデー百周年を祝う旨の横断幕や垂れ幕が掲げられているのであった。  大通りはこの夜景を見、カメラにおさめようとする人々でごったがえしている。外人観光客だけではなく、北京っ子やお上りさんが、何万人となく繰り出しているのである。ある者は私たちには懐かしい二眼レフ(むろん中国製の最新式の)を構え、ある者は三脚を抱えて車の前を横切る。  こうして運よく素晴らしい夜景を見てから、東のホテルのバーでじっくりと、水割りを飲みながら談笑する。まずは、比較社会心理学といったところから話が始まる。友宜商店にしろホテルの売店にしろ、どうして売り子、いや「服務員」どのの態度はああまでも横柄なのか、まるで「買われて迷惑」の態度、お偉方の外貨獲得の方針とあんまり矛盾がひどいじゃないか。勢い私たち日本人が疑問をぶつけ、中国人の張さんが答弁するかっこうになる。「たしかにひどいです。はずかしいです。客と接する訓練がまるでできていません。」まじめな彼は逃げもせず、抗弁もせず、しかし卑下もしない憂国の士である。  あれこれ話をして酒がまわったころ、Gさんの迷講義が始まる。彼は自ら教授と称し、年長のHさんを名誉教授にまつりあげ、二人掛け合いで「講義」をすすめていく。学生は張さんひとりで、あとは助教授だの助手だの顧問だのが傍聴する形である。内容はさる分野に関する日本語の特殊講義で、しばしば各地の方言までが教授される。張さんはまじめだが柔軟性を兼ね備えた青年で、「ワルの先輩に『教育』される後輩」といった役どころをよくこなした。  その帰り道、車外の街にはとうに灯が消えていた。あのイルミネーションも、10時には消されたという。一日、それも僅か数時間の幻のような夜景であった。車の中で私は初めて張さんと二人だけの会話をかわした。彼が中国で4年間日本語を学んだあと早稲田大学に半年間留学したこと、日本文学を専攻したことなどを聞いていたので、話してみたいとは思っていたのだが、日本語の堪能な彼は団員からひっぱりだこで、引っ込み思案の私はなんとなく近付く機会を逸していたのである。束の間の会話であったが、彼が漱石、鷗外から芥川龍之介、島崎藤村、川端康成、谷崎潤一郎、志賀直哉、と実によく読んでいること、戦後では安倍公房あたりまで読んでいることがわかった。しかしそれにつづけて彼のあげた作家は、源氏鶏太、大藪春彦、西村京太郎、山村美紗、赤川次郎などであった。  「安倍公房からあとは随分傾向がかわるんですね」私は少し笑って、二、三、若手のいわゆる純文学作家の名をあげると、彼は知らないと言い、「あまりこちらに入ってこないので」と残念そうに言った。翌日、私が彼のような人に会えたらあげたいと思って携行していた文庫本の『枯木灘』(中上健次)をプレゼントすると、新しい本が何より嬉しいと喜んでくれた。 楽しみ見つけて  出発の日の朝、まだ暗いうちに目覚めた私は一人ホテルから抜けだした。いつもバスの窓から見えていた胡同(フートン:路地)の奥がどうなっているのか、見たくてたまらなかったからだ。  胡同の奥にはまた胡同があった。どこまでいっても、白っぽい灰色の壁、崩れかけた煉瓦塀、朽ちた木の扉、アカシヤや海棠の木等々。そんな路地を人民服の老人が散歩している。思いきって四合院といわれる独特のつくりの民家、今は数家族が住む共同住宅の裏側を覗いてみる。細い通路を入って行くと、角には共同の洗濯場らしい屋外の水道蛇口、脇に置かれた懐かしい盥と洗濯板、泥をかぶった甕、竹製の傷んだ乳母車、沢山の鉢植え植物、軒下にぴったりつけて置かれた自転車、そうして・・・私はもう他人の家の裏庭へ入り込んでいた。共同の庭(院子と呼ばれる中庭)を囲む各戸の小さな暗い窓に人影が過る。私はあわてて元の路地へ戻った。  さらに胡同をいくと、ときおり早朝の出勤や買い物に出掛ける自転車がとびだしてくる。肉や野菜の自由市場は、4時半という早朝から9時半まで開いているという。住宅のかたまりごとに、煉瓦造りのがっしりした共同トイレがあり、ところどころに共同の水汲み場もあって、人々が洗面器やバケツを持って往き来している。みな私に出会うといぶかしげな視線を注ぎ続ける。私のほうも、他人の生活を覗き見するようなうしろめたさを感じざるをえない。しかし、なんと気分の落ち着く路地であろう。やはりこれが人の生活のいとなまれる場が自然につくりあげている雰囲気なのだろう。めずらしいものは無く、どこも似たようななんでもない路地が続くだけなのに、いつまでも歩いていたいのである。  やや広い道路の大分部分の幅を占めている緑地公園に行くと、そこかしこで市民が太極拳をしていた。石柱を左右の手刀で切るかのような動作を繰返す壮年の男性、極めてゆるやかに四肢を動かし、体を回転させる老人、15人ばかりかたまって、一人の指導者らしい人の号令に従って体操する一団、自転車を傍らにとめ、人民帽を木の枝にかけてそれに加わる人たち。  そんな中を、目隠しの布をかぶせた鳥籠を手に下げてぶらぶら二、三人の老人たちがやってきた。布をはずすと、彼等は籠を機の枝にかける。鳥はいい声で朝のさえずりを辺りに響かせる。昔からおこなわれている「遛鳥(リウニャオ)」(遛はぶらつく意)という、小鳥の散歩だが、周囲の人にいい声を聞かせ、自慢の鳥を見せ、同好の士と朝の挨拶をかわす老人自身の楽しみでもあり、健康維持のための散歩でもあるようだ。  北京の作家陳建功の小説「楽しみを見つけて」(村暁・鈴木貞美共訳、『早稲田文学』1986、6月号)の冒頭に、「找楽子(ズァオローズ)」(楽しみを見つける)という北京の俗語が紹介され、「青ツグミを一羽飼うのも『楽しみ』。凧を上げるのも『楽しみ』。酒一杯にニンニク一球のつまみも『楽しみ』である。」と、鳥を飼う楽しみが一番に挙がっているのを見ると、ずいぶんありふれた趣味らしい。もっともこの作品における「楽しみ」は、「世の中が変わった。北京っ子の生活は思い通りにいくようになった。しかし、誰も彼もが思い通りにいくようになったとは言い切れないので、『楽しみを見つける』という『高雅なる嗜好』は依然として続いている。」というようにイロニーをこめて使われているのである。  そんな「楽しみ」を見つけるほかはない庶民の不幸と、自分の不幸さえ「楽しみ」と化してしまう庶民の逞しさ、その両面が、作家陳建功の見据える通り、あの胡同の世界に同居しているのであろう。私が垣間見た胡同の世界では、あの漆喰の剥げた煉瓦の家々も中で営まれる生活も、「世の中が変わっ」ても何一つ変わりはしないという印象を受ける。まるで今もその辺の路地から車を引いた「駱駝祥子」が飛びだして来るかのようだ。実際、名のついたものだけで北京に3800もあるという胡同は、庶民生活の基底を構成する場として、戦争にも文革の嵐にも耐えて昔ながらの光景を見せている。どんな「正義」もいっとき胡同の上を吹き荒ぶ嵐にすぎなかった。残ったのは「正義」のほうではなく、胡同の世界だった。  しかし、その胡同がいま急速に消え去ろうとしている。北京だけではない。常州ではすでに市の三分の一の世帯が新しい住宅へ移ったというし、上海の弄堂も同じ運命にある。それは急ピッチで進む都市改造と住宅建設の結果であって、庶民により快適な住居と近代的な生活を保証するものであろう。だが、そのとき庶民のあの「楽しみ」はどこへ行くだろう?胡同の世界に表裏一体のものとしてあった「不幸」と「逞しさ」とは、はたしてうまく前者だけ除去されるという具合いにいくものだろうか。私たちも常州で見学した「新村」、日本の一昔前の公団住宅のようなあの新しい生活の場で、果たして胡同の生活に累積された豊かさ、強さ、味わいが生き延びられるだろうか。  そう考えると、私には、胡同の人々にとって本当に恐ろしいのは、戦争や文革よりも、今進行中の現代化ではないかと思われた。むろんそれは確実に人々の生活を「向上」させ、「文化的」にするだろう。だれもそれに異を唱えることはできない。だが、それは極端に言えば、戦争でも文革でも変えられなかった庶民の生活の基底を浚い、何かを根底から変えてしまうことのように思われる。  私はその意味で、胡同や弄堂の世界を愛惜する者の一人として、そこに住む人々の「楽しみ」の行方を注視していたいと思う。 帰途について  5月4日の朝、私たちは北京を発ち、上海経由で大阪へ無事帰りついた。  日本の現代文学という共通の関心事を見出した張さんと私には、その後一対一の友情が芽生えようとしている。だが、私の方は中国の現代文学について無知である。欧米文学と違って簡単に入手できる翻訳はそう多くはない。張さんと対等の立場で友好を深めるには、私も中国語ができなければなるまい。私も実は、本腰を入れた中国語の学習や中国を知るための勉強に耽溺することへの誘惑を感じないわけではない。初心者としていかにも勉強らしい勉強に打ち込むのは楽しいだろうな、と思う。しかし、そうして目の前の「中国」にとびつくのを押しとどめるものも、私の中にはある。  私は旅行中、父の八面六臂の活躍に目を瞠った。あの生き生きした表情はどうだ・・・父が宴席や表敬訪問で行う演説風の挨拶を聞くうちに、私は、彼の意識の中で、二十代の彼と今の彼とか、四十年の空白を飛びこえてピタリとつながっているらしいことに気付いた。日中の懸橋になろうと意気込んで大陸へ渡った彼の青春の夢は、一旦外的な事情で中断させられたものの、四十年を経てそのまま甦ったのである。  「日本の歴史は完全に循環する。循環するのは困ったというのではなく、循環があるからこそ、十五年間同じところに立っていれば、向こうが回ってくる。」(『戦後日本の思想』)  私は鶴見俊輔氏のこの言葉を思い出さずにはいられなかった。15年よりはかなり長かったけれど、父にとってはたしかに再び自分の時代がやってきたのである。それまで彼は、大陸への夢など過去に置き忘れてきたかのように、一介のサラリーマンになりきって、家族のために黙々と40年近く働き続けてきた。その間、彼の中国への情熱は、じっと「同じところに立って」いたのであろう。そしてたしかに「向こうが回って」きたのだ。  父は私に何一つ父に属するものを伝えようとはしなかったし、私の関心の行方について何一つ強制力を行使しなかった。私は私の世代のかぶった(例えばアメリカナイズの)波にどっぷりとつかり、「戦後」が「戦前」から切れたように父から、そして「生まれ故郷」中国からも切れていった。  そうして舞台はまわり、再び父の出番がきたというわけだ。私はここでメリーゴーラウンドにとびのってしまうこともできるし、いままでの自分を守ってじっと「立っている」こともできる。  父と子が同じ木馬に乗らないのは文化の創造や伝達の観点からすれば非効率なことだが、そこに父の潔い生き方を見る私は、その潔さの方をこそ受けつぎたいと思う。  ただ張さんの助けになることで、父にはできないが今の私にならできることがあるとすれば、私は私のままで彼等―張さんや父や中国そのものに出会うことができるだろう。そんな「無理をしない」友達づきあいが張さんとできるならと思うのである。  四十歳の折り返し以後、人は前へ進んでいるようにみえて、実は自分のそれまで歩んできた人生をもう一度、往きがけの目とはちが目でたどりなおすにすぎないのではないか。だとすれば、私が私自身の道を帰って行くことが、そのままいつか、父とは別の道を通って「生まれ故郷」へ帰って行くことだと信じたいのである。  そう思う私は、中国語も学ばず、父に教わろうともせず、子に伝えようとも考えず、ただ一週間の旅がかきたてた郷愁にも似た中国への時ならぬ恋情を、このささやかな碑に誌すことによって鎮めようとしたのである。  【完】 (1986年7月1日)
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