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煙のない空
その日は雲一つない、良い天気だった。
公園にあるような遊歩道を、スーツを着た男が一人歩いてくる。
そこにベンチを見つけて、来ていたジャケットを脱ぎ、背もたれにかけると、煩わしそうにネクタイを引き抜き、少しボタンを外したワイシャツのポケットに突っ込んだ。
ベンチに腰掛け、背もたれに身体を預けて空を見上げると、木々の間から抜けるように青い空が広がっている。
「やっぱり、煙って出ないもんなんだな…」
スーツの男、矢野一真は、つぶやいた。
今回の出来事はあまりに突然すぎて、式が終わりここへ来てもまだ実感がない。だが、今までなんとか保ってきた心の柱が折れてしまったような感覚はどうしようもない。
空を見上げたまま、大きなため息をついた、その時。
「こ〜んなところで何やってんだ?」
あまりにも聞き覚えがあるその声に、一真はがばっと体を起こした。
そこには、思った通りの声の主、津田陽介が立っていた。
「お、お前こそなんでこんなとこにいるんだよ!」
一真とは対照的に、カーゴパンツにパーカー、そしてスニーカーという、あまりにもいつも通りの格好である。
「しかしお前、スーツ似合わないな」
「ほっとけよ!っていうか、お前こそなんだよ、その格好」
あはは!と、陽介は明るく笑うと、一真の横に座る。
「別にいいだろ?好きな格好で…って…」
陽介も青く抜けるような空を見上げる。
「雲もないけど、煙も見えないな…?」
「ああ。今はこことか、工場なんかもそうだけど、煙は出ないようになってるらしいぞ?」
「へぇ〜そうなんだ。よく知ってるな。さすが作家先生」
「やめろ、その呼び方。どうせ、売れないとか、自称とか付けるもんには事欠かないしな」
「それは俺も人の事言えね〜わ」
陽介はそう言って、あはは、と笑った。
一真は作家だ。とはいえ、36になっても鳴かず飛ばず、作家というよりもフリーターと言った方がしっくりとくる生活をしている。
陽介は役者だ。が、状況は一真とそう変わらない。
「そうだ、忘れてた!」
陽介は、ビニール袋からとあるものを取り出して一真に渡す。
差し出されたものを反射的に受け取った一真は呆れ顔になった。
「なんでカップ酒なんだよ」
一真に渡したのも、陽介が持っているのも同じカップ酒だ。
陽介は早々とプラスチックの蓋を取ると、中蓋を開けて一口飲み、盛大に顔をしかめた。
「ほら見ろ、お前日本酒苦手なくせになんでこれ買ってきたんだ」
「え〜だってお前と飲むならさ、やっぱりこれだろ」
「…………」
一真は、開ける気になれず、カップ酒を手の中でくるくると回す。
そんな一真の様子を見ながら、陽介はスニーカーを履いたままベンチの座面にあぐらをかいて、またカップ酒をちみちみと飲む。
「お前さ、このまま書くのやめるのか…?」
一真は、ベンチの背もたれに身体を預ける。
「さあなぁ……」
二人の上には雲一つない青空。
「あの頃は良かったよなぁ……」
そう言った陽介に、一真も心の中で同意した。
ただ純粋に好きな事を追いかけていれば良かった。そう、一真と陽介が出会ったあの頃は……
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