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数年過ごしたアパートから引っ越すため、押し入れの奥から出した段ボール。
その中にそれはあった。
二つ折りタイプの携帯電話。
おそらく今の中高生は実物を見たことがないであろう代物だ。
「懐かしー!」
梨花はそう言って、ボタンを長押しする。
電源は入らない。
そういえば、いきなり電源が入らなくなり、故障したと判断して機種変更したのだった。
なぜ処分していないのか。
この携帯電話で撮影したデータを、いつか取り出せる日が来るかもしれない。
今は無理でも、何年後か何十年後には可能になるかもしれない。
そう思っているからだ。
残念ながら、そういった技術はまだ開発されていない。
それでも諦めきれず、引っ越しや大掃除のたびに段ボールの奥に押し込まれる携帯電話。
「……こんなことしてる場合じゃなかった。荷造り……」
息子の翼が「これなぁに」と言って携帯電話に手を伸ばす。
「昔の携帯電話よ」
梨花はそう言って、パカリと携帯電話を開き、翼に携帯電話を手渡した。
翼はパカパカと携帯電話を開けたり閉じたり、ボタンをひと通り押したりしている。
梨花は息子が新しい玩具に夢中になっている隙にと、テキパキと荷造りを進めていこうとした。
実際には、そうスムーズにはいかない。焦る。このままでは徹夜することになってしまう。引っ越しは次の週末なのだから。
夫である慶は引き継ぎで忙しく、引っ越し準備はパートを退職した梨花に任せることにしたようだ。
だが、役所やライフラインの手続きはともかく、荷造りも丸投げは正直言って、困る。
勝手に慶のものを処分してもいいのかと聞くと、ダメに決まってるだろうと不機嫌そうに言われてしまった。なにそれ。私に任せるって言ったじゃん。あさっての可燃ごみの日に間に合わないよ!
……今朝はそんな喧嘩をした。
「だれ? おかーさーん、これだれぇ? おねーちゃんだれー? ねぇみてー! おかーさん、みてみてーぇ!」
翼が大声をあげ、携帯電話を掲げたまま梨花に抱きついた。
「もうっ、なに?」
忙しいのに……と思いつつ、八つ当たりをしないよう、息を吐いてから子供の方へ視線を向ける。
「……えっ?」
息子の手に握られた携帯電話は電源がオンになっており、懐かしい待受画面が表示されていた。
女子高生ふたりが肩を寄せ合っている。
ふたりとも明るめのアッシュブラウンに染めた髪に角度のついた細めの眉毛。化粧は校則違反のため、ビューラーでくるりと上げ、透明のマスカラで固定したまつ毛。ゆるめにつけたリボンにダボっとした大きめのカーディガン。
かつての自分と、中学時代からの親友である由佳だ。
イヤー! 黒歴史〜!
梨花は心の中で絶叫した。
まさかそんな。なんで?
何年も充電してないんだけど、それ!
恐る恐る携帯電話に手を伸ばし、画面を覗き込む。
しかし、そこに映っていたのは、若さと希望に溢れるぴっちぴちの女子高生ではなく、年を重ね、様々な苦労と疲れを上塗りした顔の自分だった。
「私……こんなに老けてたっけ…………」
梨花は眉をひそめ、そのあと項垂れた。
いや、そうじゃないでしょ!
携帯電話をじっと見つめる。
電源が入っていたように見えたのは、気のせい?
「あれえ? おねーちゃんいない。なんでー?」
梨花の手の中にある携帯電話を覗き込んで翼が大声をあげた。
「うーん……なんでだろうねぇ」
自分だけならまだしも、子供も見たとなると、摩訶不思議現象確定なのだが……
まぁ、いいか。
世の中には、たぶん、科学では解明出来ない不思議なことがあるのだ。きっと。
不調が続いている家電の買い替えを検討している発言をすると、その家電の調子が良くなる──ということがたまにある。
たぶん、今のはそれと似た現象なのだろう。
こういうことは深く考えない方がいいよね。
それに、今は摩訶不思議現象よりも目の前の現実が大事だ。
荷造りをしないと。
梨花は携帯電話を息子に手渡し、荷造り作業を再開した。
『昼間に来たメール、これ何?』
午後五時半過ぎ。
梨花のスマートフォンに慶からメッセージが届いた。
慶の職場は衛生管理上、私物を作業場に持ち込めない。
退勤後に更衣室でスマートフォンの電源を入れたところ、めったに使わなくなったSMSのメールアドレス宛てに梨花からメールが届いていたのだという。
添付画像のなかの本文をじっと見つめる。
読み方すらわからない漢字とカタカナや記号の意味不明の羅列で、それは不快感を抱くものだった。
文字化け。
近年めっきり見かけなくなってしまったそれを、梨花は懐かしい気持ちで眺めた。
さらに添付画像を拡大してみると、送信元はかつて梨花が使っていたSMSのメールアドレスだった。
なぜこんなメールが慶に届いているのか。
考えられる原因は、ただひとつ。
昼間、数十秒だけ電源がオンになった携帯電話だろう。
なんらかの理由で気まぐれに電源が入った携帯電話がメールを送信したのだ。
梨花は目を閉じた。
あの二つ折りタイプの携帯電話が壊れる前、私は誰かにメールを打っていただろうか。何かを伝えようとしていただろうか。
梨花と慶は保育園の頃からの腐れ縁という仲だった。
ひょんなことから付き合い始めたのは高校生の頃。
携帯電話を持ち始めたのもその頃だ。
あの二つ折りタイプの携帯電話は、梨花の初めての携帯電話だった。
たくさん写真も撮ったし、メールのやり取りをした。
だから、いまだに壊れた携帯電話を捨てることが出来ない。
たとえもうデータを見ることが出来ないとしても。
付き合い始めた、あの頃の、嬉しかったり、ドキドキしたり、うっかりすると忘れてしまうような、気持ち。
その気持ちをどこかにずっと変わらずに持っていたくて。
そうだ。あの頃、慶と大喧嘩した。理由を覚えていないあたり、くだらないことが理由だったのだろう。
このままでは喧嘩別れしてしまうと思った梨花は、泣きながらメールを打った。
だが、本当にこの文章でいいのか。仲直り出来るか不安になった梨花は、お風呂に入って冷静になってから送信しようと思い……入浴後、自室に戻ったら携帯電話の電源が入らなくなっていたのだった。
焦った梨花は、家族に見つからないように家を飛び出した。
そして、途中で慶と鉢合わせして──
『文字化け復元できるサイト見つけたんだけど』
慶からのメッセージに胸がざわつく。
梨花が昔を思い出している間に届いた、慶からのSMSメールは文字化けしていた。
例の文字化け復元サイトは、通常の文章を文字化けしたものに変換してくれるらしい。
「そういうことは直接言ってよ……」
……なんて。人のこと言えないか。
謝罪は自分の口でしなさい──メールが普及しつつあった世間を憂いた高校時代の恩師がよく言っていた。
「そうだよね。直接言えば文字化けなんてしないよね」
引っ越し業者の段ボールに寄りかかり、二つ折りタイプの携帯電話をパカパカ開け閉めして遊んでいる翼を眺め、梨花は微笑んだ。
慶が帰ってきたら、自分の口で伝えよう。
変わってしまった関係と、それによって得たもの。それらをとても愛しいと思っていること。
そして、今も変わらない気持ちを。
携帯電話の画面が、一瞬だけ光った気がした。
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