背乗り

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「今日はここを当たってみるか」 斎藤は一人呟くと、目の前にずらりと並ぶ小屋を一瞥した。 それらの小屋は、全体がブルーシートで覆われているものや、屋根の部分だけは木の破材で覆っているが側面は段ボールで囲んであるだけのものなど、辛うじて雨風はしのげるようにはなっていたが、とても人が住むようなものには見えなかった。 だが、その一個一個には世を捨てた住人が今も住んでいる。 今は昼の十三時。 会社員なら仕事の真っ最中だが、この辺りの住人は「家」にいる時間だった。 彼らは夕方から早朝にかけ人目を避けて「仕事」をするのが普通だ。 斎藤は右の端から訪ねて行った。 段ボールで作られたドアのようなものを軽くノックしながら声を掛けた。 「誰かいるかい?」 何も応答がないが、これが普通の反応だった。 斎藤は段ボールのドアを開けた。 不快な臭気が漏れてくる。 照明器具のない部屋の中は薄暗かったが、汚れた家財道具の散乱する部屋の中にぼろきれを被って横たわる人間がいる事は分かった。 「おい、ちょっといいかい?」 その人間は少しだけ顔を上げ斎藤を見た。 「なんだい、あんた」 顔は真っ黒で髪は伸び放題という典型的なホームレスの風貌だ。 「ズバリ聞くが、あんた一人もんかい? それとも家族残してトンずらした口か?」 「なんだよ、うるせーな」 ホームレスは面倒臭そうに言い放った。 「チっ」 斎藤は舌打ちをすると、近くに転がっていた鍋を蹴飛ばした。 「おう、おめぇ、なめんじゃねーぞ、ごらぁ。おめぇは一人もんかって聞いてんだよ」 斎藤は部屋に踏み込んですごんで見せた。 上質なスーツにサングラス、小さ目の高級鞄を手にした斎藤の風貌は堅気の人間には見えない。 「え、な、なんだい。はい、いや、そうだよ。俺には家族がいたよ。なんなんですか」 ホームレスは飛び起きると少し慌てたように答えた。 「そうかい、んじゃ、用はねぇ。邪魔したな」 斎藤はその小屋を後にし、隣へ向かった。 そんな訪問を繰り返し、四つ目の小屋で齋藤はついに探していた人間を見つけた。 「そうかい、あんたは、天蓋孤独ってやつか」 「ええ、女房とは最初の事業に失敗した時に離婚してますから。子供もいないし、親はとっくに他界してますよ。親戚たって行方知れずの俺の事なんか忘れてんじゃないかな」 「そうか…寂しいもんだな」 「仕方ありませんね。これが俺の人生です。何をやっても上手くいかず、とうとう何もかも失った。後は寿命が尽きる迄今の自由な暮らしを続けて、最後はどこかで野垂れ死にですよ」 その男は自嘲気味に笑った。 「んじゃ、もう、社会に復帰するつもりはねーって事だな」 「ありませんね。もういい。あの殺伐とした社会はもう御免です。今の自由な暮らしに満足してますよ」 斎藤は、全てが依頼のスペックに合うと思った。 この男の部屋は、全体がブルーシートに覆われており、中は比較的綺麗になっていた。壁に作業服が掛けられているところを見ると、空き缶回収だけでなく日雇いの力仕事をする時もあるようだったが、住民票が必要な事も無いだろう。この男なら頭も悪くない。話しておけば上手くいくと思った。 「そんなあんたにちょっと相談があるんだけどよぉ」 「なんです?」 「あんたの戸籍、売ってくんねーか?」 「戸籍?」 「おうよ、戸籍だ」 「戸籍売るってどうやって?」 「なに、簡単な事よ。あんたの名前、生年月日、本籍なんかを教えてもらえりゃ、それでいい。但し、以降あんたには名前を変えてもらう。テキトーな名前つくって名乗ればいいさ。住民票とかは取れねぇがな」 「はぁそうですか…。まぁ、今だって誰にも本名なんて言って無いし、これからも使う事なんかないでしょうから。いいですけど…」 「二十万出す、どうだい?」 「二十万…。いいでしょう、売りますよ」 「よし決まりだ。だが、これ以降どこかであんたの本名出してもらっちゃ困るぜ。そんなことがあったら、命はねぇよ。いいな」 ホームレスはごくりとつばを飲んでから。頷いた。 「じゃ、この紙に書いてくれ」 斎藤はそう言って、ホームレスに個人情報を記載する紙を渡すと、鞄から現金二十万を出した。
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