言葉をこえる

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 仕事は再び忙しくなり、夜の散歩が多くなった。あれから数度しか公園には行っていないが、あの世話好きの女性がいろんなグループに噂を訂正しまくってくれたせいか中華屋さんの犬の評判はあがっていた。いつの間にか飼い主を守った犬ということになっていた。それは大袈裟だとは思ったが、もしかしたらそうだったのかもしれないと思い直し、噂は訂正しないでおいた。  夜に狭い道を通ることは避けるようになった。やはり事故のことが頭をよぎる。それで歩道もあって街灯が明るい商店街を歩くようになった。昼間は人は多いが店が閉まる頃にはその姿はだいぶ減る。それよりも遅い時間なので人の姿はほとんど見かけなかった。  犬達が急にリードを引っ張り出した。何事かと目を向けるとそこはあの中華屋さんだった。店は閉まっていたが店内は明るく、まだ中には人の姿が見えた。どうやらこれから家族の遅い夕食のようだった。ガラスの扉の細い隙間からあの白い犬が顔を出していた。 「久しぶり」私は声をかけた。すでに犬達は鼻をあわせて挨拶に余念がなかった。犬は外へと出たがったが、みんな忙しいらしく気づいていないようだった。 「これからご飯じゃないの?」そう言ってみたものの犬に言葉が通じるはずもなかった。  ふいに階上(うえ)から声がした。その声は日本語ではなかったが私は顔を上げた。そこには犬のお皿を持ったあのお婆さんの姿があった。どうやら「ご飯だよ」と叫んでるようだった。私は嬉しい気持ちになって「こんばんは」と叫んで手を振った。お婆さんと目が合った。どうやら私と犬達のことを思い出したようだった。するとなんとなく照れくさそうな顔をして会釈しながら笑顔をみせた。そこにはあの歪な笑顔はなかった。  戻って来てくれたんだなと胸が熱くなった。けれど何も言わなかった。 「ご飯だって呼んでるよ」そう声をかけると白い犬は慌てて奥へ入って行った。顔をあげるともうお婆さんの姿はなかった。 「今度は日本が嫌いにならないといいね」  私は犬達にそう声をかけた。そして散歩を再開させるための一歩を踏み出した。 〈了〉
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