狸の嫁入り

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 村から少し離れた滝の岩場に一匹の狸が鎮座していた。  すらりと細い四肢、濃淡のくっきりと分かれた艶やかな毛並み、ぴんと立った耳に立派な尻尾。  名を貴吉(たかきち)と言う。  風に吹かれてきた木の葉が一枚、瞑想するようにじっと目を閉じて微動だにしない彼の頭におちた。吸い付いたようにその場に留まる木の葉。  しばしの()を置いて、貴吉(たかきち)がくるりととんぼを切った。  刹那、その場に現れたのは着流しの美丈夫だった。整った目鼻立ちに美しい手指。長い艶やかな髪は鴉の濡れ羽色。  狸相伝、変化の術。  貴吉(たかきち)は水辺を覗き込んで己の姿を確認すると深い溜息を吐いた。  そこに映った姿にはひとの耳と狸の耳がそれぞれついている。腰に手を回せば尻尾も残ったままだ。 「貴吉(たかきち)、調子は……よく、なさそうね」  背後から現れたのはお(はな)だった。 「ああ、お(はな)。ご覧の通りさ」  苦笑いを浮かべる貴吉(たかきち)の顔を見ながらお(はな)は落ち葉を一枚拾うと頭にのせながらくるりととんぼを切った。その姿はたちまち美しい人間の娘へと転じたがもちろん狸の耳も尻尾もない人間そのものの姿だ。  脱力したように腰を下ろした彼の隣に座って肩を寄せると「なにがいけないのかしら」と彼女が呟く。 「まさかこんなことが克服出来ないなんて、俺は自分が不甲斐ないよ」  見た目も身のこなしも知恵も他の狸より抜きん出た貴吉(たかきち)だったが、どういうわけか変化の術だけはどうしても苦手だった。  まったく変化が出来ないわけではない。むしろ人間だけでなく石でも馬でも思うものに変幻自在ですらある。だが、どうしても、なにに変じても、耳と尻尾が残ってしまうのだ。 「今日、お(とう)次郎作(じろさく)はどうだと言ってきたわ。私は好みじゃないって答えたけれど……」 「やはり、次郎作(じろさく)を……」  貴吉(たかきち)次郎作(じろさく)はあまりよい関係とは言えなかった。その理由のひとつであり最も根深いものがお(はな)の存在だ。ようは、次郎作(じろさく)は恋の戦いに敗れているのである。  選んだのはお(はな)だから、そこは弁える程度の分別が次郎作(じろさく)にもあった。もとより群れで生きる獣、いくら体が大きいからと狼藉を働けば村八分になりかねない。  しかしお(はな)はまだしも、幼い頃からなにかと競い合ってきた貴吉(たかきち)を素直に認める気にはなれず、二匹の(あいだ)にはいつも言い知れない緊張感が漂っていた。  そんなとき、村長(むらおさ)が全ての若い狸を集めて言った。 「次の春、最も変化の術が上手い者を新しい村長(むらおさ)とし、今の村長(むらおさ)であるわしの娘、お(はな)を嫁がせる」
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