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「昨日ね」を枕詞に、彼女は話し始めた。
「愛ってどんな形なんだろうね」
昨日観たテレビドラマでは、子どもを『愛の結晶』と言っていた。ドラマに割り込んできたコマーシャルでは、『十年分の愛の形』としてダイヤモンドのネックレスが女性のデコルテを華やかに飾り立てる。それを見た彼女から発せられた質問だった。
話半分に聞きながら、目の前のノートに化学の問題集の解答を書いた。
左に反応物、右に生成物。左右で抜け落ちた物質がないか、確認する。
——全て間違いなく揃っている。
化学式で表された世界は、一つの欠落もなく、見事な調和を保っていた。式は、複雑な現象を内に取り込み、純化された美しい結晶となって顕れる。その姿をうっとりと眺めた。
「聞いてる?」
苛立ちを滲ませた声に顔を上げると、彼女は前の席に正対して座って腕組みをしていた。
「うん」
ペンケースから、細長いクリーム色の付箋を取り出す。人差し指とちょうど同じ長さのそれに、アルファベットと数字を書きつけた。
【C43H66N12O12S2】
紙の端をつまんで引っ張ると、丁度よい抵抗力で付箋は剥がれた。細長いクリーム色を、正対する彼女のおでこに貼り付ける。彼女は目をしばたたかせた。
「これが、愛の形」
控えめに貼り付いていた付箋は、剥がそうとした彼女の指が軽く触れたことで、ひらりと机の上に舞い降りた。彼女はそれを摘まむと、不思議そうに眺め、裏返したり逆さまにしている。
「これは……暗号か何か?」
アルファベットと数字の羅列。確かに暗号に見えなくもない。
「オキシトシンの化学式」
「オキ……オキシ……って、何?」
彼女がキツネにつままれたような表情でこちらを向いたので、「これはね」と化学式を指差した。
「愛情ホルモン、って言われてる。これが脳で分泌されると、相手への愛情が高まるらしい。だから愛は、この化学式になる」
彼女は感心したように頷くと、姿勢を正して付箋を机の上に置き、改めて化学式をじっくり観察した。
「すごいね。これが愛の形かぁ」
紙に書かれた文字をそっとなぞる、彼女の人差し指はすんなりと長い。
「構造式も知りたいなら、調べておくけど」
何のことだと言いたげに首を傾げるので、六角形が連なっているような形の図だと伝えると、想像がついたようだった。
好奇心いっぱいに「見てみたい」と言うので、頭の中のタスクリストを一つ、増やした。
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