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本日のノルマ分を解き終え、机の上に開いて置いていた化学の問題集を閉じた。
本のページが起こしたささやかな空気の流れが、同じく机の上に置かれていた付箋を吹き飛ばした。小さな紙切れはくるくると回転しながら舞い上がり、机の端ぎりぎりで彼女に拾い上げられた。
接着面を内側にして紙を半分に折ると、彼女は制服の左胸ポケットにそれを仕舞った。
「【愛】は大切にしないとね」
澄まし顔をして、胸ポケットを軽く叩く。中身がビスケットなら、叩く度に倍々で増えていくのに。
わざとらしい仕草がおかしくて笑うと、自分でも面白くなってしまったのか、彼女も弾むように笑った。
「ではでは、お礼という訳ではないけど、私からも愛のおすそ分け」
思い出したようにそう言うと、彼女は鞄をごそごそと探った。サイドポケットから、大事そうに小さなナイロン袋を取り出した。半透明なので見えにくいが、中に何か入っている。ほのかに甘い匂いがした。
「今日の調理実習で作った余り。形はアレだけど、美味しいよ」
差し出されるままに受け取った。見た目より重さのある塊は、確かに、いびつで大きさも様々だ。袋に三つ入っている。軽く結んであった袋の口を開くと、一つ取り出す。
手に取ったクッキーは、甘いバニラの香りがした。彼女の調理実習の成果物は、不揃いで、いびつで、縁は少し色が深くて焦げている。
化学式のような完成した美しさはない。でも。
「いただきます」
ちょうど一口分のクッキーを、大きく口を開いて頬張る。バターとバニラと少し焦げた香りが、口の中でせめぎ合う。噛み締めると、口の中で解けるように崩れていった。ほんのり苦くて、柔らかな甘さが舌に沁み込む。このまま捉えておきたいと思う間に、口の中から消えてしまった。
「うん。苦いけど美味しい」
甘く浮き上がるようなくすぐったい気持ちを隠して、二つ目を摘まみながら味の感想を伝える。
「そこは『おいしい』だけでいいよ」
心配そうに頬杖をついてこちらを窺がっていた彼女から、笑顔がこぼれた。
彼女の愛は、いびつで不揃いで、少し苦くて甘い。それを咀嚼し飲み込み、消化する。小さく小さく分解して、吸収する。
そうして、いつの間にか【C43H66N12O12S2】に化けて、血液に乗り身体中に滔々と満ちていく。
机に出していた荷物を片付け、席を立つ。
「帰ろうか」と、すでに帰りの準備を終えた彼女に手を差し出した。
二人の手のひらが重なり、左と右とで世界は正しく調和した。
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