十三番のお客様

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 「……あ、佐渡さん」  私の小さな呟きを拾って、マスターは一瞬手を止めてからマグカップを取り出した。胸元まで伸びた艶やかな黒髪を靡かせる彼女は、いつも決まってブレンドコーヒーを注文する。案内する間もなく、佐渡さんはパーテーションの向こう側へ消えて行った。  手早くお冷とおしぼりをお盆に乗せて、彼女の元へ向かう。佐渡さんはいつも春風のように現れて、そして木枯らしのように去っていく。そんな不思議な人だ。  「いらっしゃいませ」  「こんにちは。……いつもの、貰えるかしら」  「かしこまりました」  彼女の滑らかな声に押し出されるようにカウンターへ戻れば、湯気と美味しそうな香りを立てたコーヒーが用意されていた。  「十三番さん、ブレンドコーヒーです」  「うん。それ、お願いします」  マスターは一瞥もくれずに穏やかにそう言って、私は形式上発した言葉の無意味さを自覚しながら静かに頷いた。  コーヒーを運びながら物思いに耽る。佐渡さんに持ちかけられる相談内容は、本当に様々だ。年配の男性の老後についての不安を聞いている時もあれば、二十歳くらいのギャルから来月のネイルのデザインについて相談されていることもあった。  伏せられた睫毛は優しく、緩やかに下がった目尻には温情がある。今日はそれを向けている相手はおらず、彼女は一人、窓の外をぼんやりと眺めていた。  「お待たせいたしました。こちらブレンドコーヒーになります」  「ありがとう。……高瀬さん」  「……はい?」  立ち去ろうとしたところを呼び止められて、振り返る。佐渡さんは二、三度ゆっくり瞬きをして、それから控えめに瞼を落とした。  「私ね、大切な人がいるの」  清く、柔らかく、湿った声だった。懺悔のような、静かな声だった。  「彼の生きがいになりたかった。……なれていると、思う。でも、これでいいのかなって……」  佐渡さんはまた窓の外に視線を移して、窓ガラスに反射する自分を見つめているような、それともどこか遠くの何かを探しているような、そんな表情をしていた。  ──雨が、降っている。  「私、多分、忘れられたくないのね。だから今もここにいるんだわ。……本当に、狡い女なの」  悲しげな瞳に見つめられて、彼女の後ろで音を立てて流れ行くものたちが、まるで涙の粒ように感じられた。  「ごめんね……高瀬さん」  ついぞ、私は何も言えなかった。
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