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定食屋の内装は昔と変わっていなかった。そして昼のピークが過ぎていたので、お客さんは今一人もいなかった。
慎太郎は昔と同じように窓際の席に案内してくれた。
「メニューは何にする?」
「えっと、それじゃあーー」
「あ!! あなた、もしかして紗代ちゃん!?」
私のセリフは店の奥にいた女性に遮られた。
その女性は、私に気づくとすぐさまこちらへやってくる。
「あらあら久しぶりじゃない! 元気してた?」
「あ、はい」
慎太郎の母である。今も変わらず夫婦で定食屋を営んでいるらしい。
「いやあ、もう、なん年ぶりかしら!? 今日はゆっくりしてちょうだい! またオムライス作ってあげるわ!」
「あ、どうも。ありがとうございます」
「母さん、俺が作るからいいよ」
「何言ってんのあんた! せっかく紗代ちゃんきてくれたんだし、お相手してあげなさい!」
「いや、俺別に――」
「じゃあ任せたわ。みねこちゃ〜ん! あっちでアイス食べる?」
「たべる〜〜!!」
慎太郎の母はみねこちゃんと一緒に店の奥へといってしまう。あいかわらず嵐のように過ぎ去っていった。
「まったく母さんはいつも……」
「おばさんは変わらないね」
「そうだな」
そういえば、慎太郎はどうして平日の昼にここでのんびりしているのだろう。
「慎太郎はもしかしてお店継ぐの?」
「……」
慎太郎は答えなかった。そして私から目線をそらす。
「……実はまだ継ぐ予定はないんだ」
「そっか。それじゃあ野球続けるの?」
「あー……」
慎太郎は気まずそうにしていた。そして左手で後頭部をポリポリとかく。
慎太郎はぽつりと言った。
「……今更隠しても仕方ないか」
そういえば、お店に入る前に私は同じ質問をしたが、慎太郎が答える前にみねこちゃんが出てきて答えを聞けてなかった。
「実はさ」
「うん」
「野球、もうやめたんだ」
慎太郎は小学生くらいからずっと野球を続けていた。高校生の時もずっと。あんなに楽しそうに続けていた野球を簡単に諦めるなんて、慎太郎らしくない。
「どうして?」
「どうしてって、たいした理由じゃねぇ。右肩が壊れて野球は続けられなくなった、それだけだよ」
「……」
「それにさ。俺くらいの実力の奴はいくらでもいるみたいでさ。肩壊す前から限界を感じてて。ここがやめどきだったのさ」
慎太郎は乾いた笑みを浮かべ、まくし立てる。
「どうせ諦めかけてたんだ。肩が壊れたとか、そんなの関係ない。やっぱ無理だったんだよ。昔は紗代ちゃんに『プロ野球選手になる!』とか言ってたけど、現実知ったらそんなこと言えねぇって。すっきりしたよ。ホント」
慎太郎の言葉はどれも言い訳みたいだった。
きっと本心ではないのだろう。どの言葉も仕方なく言っている。そんな気がする。
「慎太郎はあんなに野球好きだったしさ。野球だけは続けるって思ってた」
「……人の心なんて、時間が経てば変わるもんだろ?」
その言葉は、私から目をそらして言った。
「慎太郎、本当に野球を続ける気はないの?」
「……そりゃそうだろ。いい加減、ちゃんとした仕事つかねぇとやばいしさ。今は深夜のバイトやってるけど、そればっかやるわけにもいかねぇし。それに、みねこの面倒みてやる奴がいるだろ? こんな状況で野球なんてできないって」
野球が好きな気持ちは変わっていないのかもしれないけど、自分のことばかりできない。私が知る限り、慎太郎の野球への熱意は周りの誰よりも熱かった。それでも今の状況を考えたら、諦めるしか道がない。
でも。
私は、慎太郎がまだ野球を続けたいように見える。
それによく見ると、慎太郎の左手はたくさんのマメができていた。
「慎太郎が今深夜のバイトしてるのってさ。昼間は野球の練習するためじゃないの?」
「……え、なに言って――」
「右肩がダメなら、左肩でやってみてもいいんじゃない?」
「……!」
慎太郎は咄嗟に左手を隠す。
「無理に決まってるだろそんなの。漫画じゃあるまいし」
たぶんだけど、野球を続けたいってこと、言い出せてないだけなのかもしれない。
「野球の練習、してるんだね」
「……」
熱意があっても周りは許さない。いろいろ考えるうちにどうしたらいいかわからなくなるよね。よくわかるよ。
「昔から全然変わってない。ごまかし方とか昔そっくりだった。左手にもいっぱいマメあったし」
就職とかいろいろさ、周りはうまくいってるもんだから焦るよね。自分はバイトでみんなは仕事がんばってて。
「本当はお母さんにどこか就職するように言われてるとか? みねこちゃんのことも、深夜バイトで手が空いてるから面倒みてるってだけで、必要、ではないんでしょ?」
何をやってもうまくいかなくて、次第に自分が何をしたかったのかもわからなくなる。
「焦る気持ちはわかるよ。自分だけ何もやってない。そんな気持ちになるよね」
私も一緒。
「考えなきゃいけないことっていっぱいあるかもしれないけどさ」
私は一つ咳払いをしてから言う。
「慎太郎はどうしたいの?」
慎太郎はそっと顔を上げ、私を見た。
「……」
そして溜息をついて言った。
「……紗代ちゃんにはかなわねぇな」
慎太郎は困ったように笑っていた。慎太郎はぽつりと、少しずつ本音を話してくれた。
「野球、そりゃあできることなら続けたいさ。でも、好きなだけじゃどうにもならねぇことってあるもんだよ。俺くらいのやつなんていくらでもいるんだ。むしろ俺の実力なんて平凡以下ってくらいで。今から俺がいくら頑張ってもあそこの連中は超えられねぇ。そんな世界だったよ」
みんな夢を目指して本気で挑む。私の努力なんてちっとも足りない。そう思わされるような世界。
私もよく見てきた。
「そうやって燻ってるときに、運悪く右肩を壊したんだ。そりゃ諦めたくもなるさ。万全でも全力で挑まなきゃ置いていかれるような世界なのに、怪我。諦めるしかないさ。
でも、プロは難しいとしてもさ、野球に携わることならできる。仕事にしなくたって趣味で続けてもいいしさ。怪我してからそう思うようになったんだ」
その言葉を聞けてよかった。やっぱり昔と同じ野球に熱い慎太郎だった。
「でも、働かないわけにもいかねぇ。うちの実家継いだり、どっかの企業に就職したりな。そうするとさ、どうしても野球の時間って極端に減るだろ? その決心がまだできてないんだ」
「そっか」
だから深夜のバイトなんだね。
「なんとかしなきゃとは思ってるんだがな……」
慎太郎もいろいろと考えてる。そりゃ悩まない人なんていない。
でも、
「慎太郎は大丈夫だと思うよ」
「え?」
慎太郎の気持ちは決まっているのだ。ただ、周りが気になってる踏み出せていない。それだけなのだろう。なら大丈夫。
「野球が好きだから昼は練習する。夜はバイトでお金を稼ぐ。それでいいんじゃない?」
「いやでも、いつかは就職しなきゃダメだろ」
「まぁ普通はそうかも。でも慎太郎は違うんじゃない?」
「……!」
私の言葉は慎太郎のためにならないかもしれない。それでも、どうしても、慎太郎の背中を押して上げたい。
「慎太郎なら今の生き方でもそれなりにやっていけると思うよ。でもまだ野球を諦めたくないならさ、後悔せず野球を諦める決心がついてから就職してもいいんじゃない?」
「……そっか」
「うん。難しく考えることないよ。気の済むまで挑戦する方が慎太郎に合ってると思う。やめたくなったらやめればいいんだし。それまで今の生活続けたっていいと思うよ」
そのとき、不意に自分の心がズキッと痛くなった。自分の言った言葉が心に突き刺さったような気がした。
「慎太郎は、どうしたいの?」
「……ふっ」
慎太郎の顔が、曇った表情から少しずつ柔らかさを取り戻してきた。そしてしばらくすると、その顔は完全に笑顔になっていた。
「ははははっ! そうだな! なんか俺らしくなかったわ!」
その笑顔と対照に私の心は曇っていた。慎太郎の笑顔が輝くほど、私の気持ちは重くなった。
「ありがと紗代ちゃん、なんか肩の荷が下りた感じがするよ」
「うん。慎太郎は笑った方がいいよ」
「俺、また野球がんばるよ。今度は左で。思う存分やってみる」
すると、慎太郎は何かを思い立ったようで、私に尋ねた。
「紗代ちゃんはアナウンサーになれるよう今まで挑戦してきたけどさ。その、挑戦を諦めた俺が訊くのもなんだけど、何度も挑戦するのって大変だよな」
私の心臓が一度ドクンと跳ね、そして急激に縮んでいくような気持ちになった。
「あ、悪い。アナウンサーになるって決まってるわけじゃなかったよな」
そうだ。慎太郎は本音を話してくれた。久しぶりに会ったばかりの私にもかかわらず。
対して私はどうだろうか? 私は慎太郎に対して少しでも本音を話しただろうか?
「紗代ちゃん?」
そんなの、慎太郎に失礼だろう。本当の気持ちを話した方がいい。
「ねえ慎太郎」
「うん」
「さっきはアナウンサーにもうすぐなれるかもって言ったけど、実は――」
たぶんアナウンサーにはなれない。……そう言いたかったけど、私は言葉にできなかった。
慎太郎は本音を話してくれたのに。まだ逃げるの?
「紗代ちゃん、もしかしてアナウンサーになるの、難しそう?」
「……!」
縮んだ心臓をさらにぎゅっと縮められたような気がした。
私は一度、コクンとゆっくり頷いた。怖くて慎太郎の顔をみることができなかった。
「そっか」
さっきまであんな偉そうなこと言ってたのに自分は見栄を張ってたなんて、恥ずかしくて仕方なかった。
私は挑戦するよう慎太郎を励ましたばかりだ。それを言った私は諦めかけているなんて。かっこわるすぎる。
「ねえ、紗代ちゃん」
慎太郎は驚くほど優しい声で言った。
「本音で話すのって、怖いよな。俺も、さっき知ったけど」
「……」
「だから、無理に話さなくてもいいぜ」
怖い。
慎太郎になんて思われるか考えると、もう顔を見ることができなかった。慎太郎もさっきはこんな気持ちだったのかな。
でもここで話さない方がかっこわるい。
「で、ここからは俺の想像なんだけど」
慎太郎は一つ咳払いをしてから言った。
「紗代ちゃんならきっと大丈夫だ」
「え」
「アナウンサーになるのってやっぱ大変だよな。なれないって思ってるわけじゃないけどさ、やっぱ難しいもんは難しい。紗代ちゃんはかわいいし、声もハキハキしてるからアナウンサーになってても不思議じゃないと思う。
でも、もっとがむしゃらにアナウンサー目指してる人だっている。そんなの見ると、自分はこの世界に及ばないって思っちゃうよな。俺だってプロになりたかったけど、現実は厳しいって知ったしさ」
慎太郎はそこで一呼吸置き、私の目をじっと見て言った。
「それでも紗代ちゃんは挑戦したんだ! 俺はしなかったけど、紗代ちゃんは挑み続けた! そこだけは俺と決定的に違う。誇っていいと思う」
「でも」
私はうつむいたまま口を開く。すると、思ったよりスラスラ自分の本音を言葉にできた。
「私は挑戦しただけだよ。結局夢を叶えられなかったら同じじゃない。せっかくお父さんとお母さんが私のために大学や塾のお金を出してくれたのに。こんなにがんばって今更だめでした、なんて言えるわけないじゃない」
「紗代ちゃんはどうしたいの?」
「……!」
「もしかすると、今挑戦を続けてるのは、誰かの迷惑になるって気持ちじゃないかな」
でも、なりたい気持ちがないわけじゃない。小さくなっているとは思うけど。
「考えなくちゃいけないことはいっぱいあると思う。でも、難しく考える必要はないぜ。って、俺の知り合いから聞いたんだ」
「……!」
慎太郎の顔を見ると、ニヤッと笑っていた。
「その人は、気の済むまで挑戦した方がいいんじゃないか、やめたくなったらやめればいいんだ、って言ってくれた。俺の好きな言葉だ」
はははっ。
「俺はまだ挑戦してないけどさ。紗代ちゃんは、ここで諦めたとしても、後悔しない程度には挑んできたんじゃないかな」
「……そうかも」
「紗代ちゃんはどうしたい?」
口に出して笑いそうになった。
なんだか慎太郎らしい軽口がとても心地よかった。
私はたぶん、何十社と試験を受けるうちに、アナウンサーになることはと諦めていたのだと思う。それでも書類を提出したり、面接を受けたりしていた。その動機はおそらく、両親への罪悪感なのだと思う。
それはつまり、本当はアナウンサーになることを望んでいないのかもしれない。もちろん、昔は純粋にアナウンサーになりたかった。でも今の私は、諦めても後悔しないくらい挑戦したのだろう。
「ありがとう。慎太郎。元気出たわ」
「だろ。俺もその言葉から元気貰ったんだ」
慎太郎も同じ気持ちなのかな。私も何か慎太郎の心に残すことができただろうか。
「ふふっ」
「あ、やっぱ紗代ちゃんは笑った方がかわいいよ」
「ありがと」
私は本音を話すことが怖かったけど、慎太郎はそれでも迷惑に思ったりせず、親身になって聞いて、アドバイスまでしてくれた。
たったこれだけのことが、こんなに私の心を温かくしてくれるなんて想像もしてなかった。
するとそのとき、私の目から自然と涙が出てきた。
「えっ」
「お、おわっ! だ、大丈夫か紗代!」
「大丈夫だよ! 大丈夫」
きっと私は安心したのだと思う。ずっと、アナウンサーになることを夢見て。でも、これからどうするか、全く想像できなかった。
今は何にでもなれる気がする。
「ホントは不安だったんだ。こっちに帰ってきたのも、アナウンサーになれない自分から逃げたかったの」
「そっか。そうだったの――――」
「オムライスおまたせ~! ってええ!! どうしたの紗代ちゃん! ちょっと慎太郎! また紗代ちゃん泣かしたのかい!」
「えっ!?」
すると、慎太郎のお母さんができたてのオムライスを運んでやってきた。
「お、俺は」
「おばさん、違うんです。私のこれはうれし泣きだから」
「あらそう? ならいいんだけど、って慎太郎! もう時間じゃない! はやくみねこちゃん送って来なさい!」
「あ、本当だ! すまねぇ紗代ちゃん! あとはゆっくりしててくれ! 俺ちょっとみねこ送ってくるから」
「うん」
「またな紗代ちゃん!」
「しんちゃ~ん! い~く~よ~!」
部屋の奥から現れたみねこちゃんを慎太郎はすぐさま抱え上げ、店から飛び出していった。
「それじゃあ紗代ちゃん、ゆっくりオムライス食べていってね」
「はい」
私はスプーンで一口オムライスをすくい、大きく口を開けて食べた。
「美味しいかい?」
「はい。とってもおいしいです!」
終わり
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