化ける

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 教室にはテレピン油の匂いが漂っていた。俺は少し顔をしかめると、窓を開けていく。自分が描くときは気にならないのに他人の油の匂いは体臭を嗅がされているように感じてしまう。  絵筆を取ると、大きく自分の絵に振り下ろした。凡庸で小綺麗な絵に斜めに大きく黒い線が描かれる。  おかしい。  俺は天才ではなかったのか。  東京美術学校に入り、普通科を二年。やっと、西洋画科に入った。そうすれば、すぐに認められると思っていたのに。自分の絵が同級生たちの絵と比べて素晴らしいかというとそうでもない。俺の絵で日本中の人感動を与えられるはずだったのに。  この学校では無理なのかもしれない。ああ、もっと家が金持ちだったら、パリスに留学することもできるだろうに。  さらに塗りつぶそうと筆を振り上げる。 「まだ、いらっしゃるんですか?」  声をかけられ、ビクッと振り返ると、そこにいたのは藤森教授の奉公人だった。木綿の着物を着た中年の男で教授の授業の後、いつも教室の片付けをしている。確か、末吉と呼ばれていた。 「大事なことを考えているんだ」  虚勢を張ると、末吉は俺の絵を覗き込んだ。 「もったいないですねえ」 「もったいなくなどない。このようなくだらない絵」 「いえ、絵の具がもったいないと思いまして」  末吉の静かな声が癪に触る。怒鳴りつけたかったが、その前に末吉は淡々と続けた。 「お金がある方が羨ましい。私の家は貧乏な農家で身近な絵はお寺の仏画だけだったんです。絵を習うお金なんてありませんでした。親がせめて、好きな絵のそばにいられるようにと藤森教授の家に奉公するようにしてくれました。今では先生のお下がりの道具で絵を描いたりもします。無駄にするなら、その絵の具を頂けたらと思いまして」  末吉の伸ばした手から慌てて絵の具箱をかばった。 「無駄になんかしない。これから、描き直すんだ」  この学校に入るのにはお金がいる。それはわかっていた。でも、なぜか、農家の子で絵を描きたいと思う子がいるとは思ったことがなかった。でも、これは譲れない。 「絵の具がもったいないなんてことはない。俺は俺の絵で証明してみせる」  俺が宣言すると、末吉はかすかに笑みを浮かべ、「楽しみにしています」と言った。
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