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ライブハウスは大抵地下にあるから僕のスマホの電波はいつも一、二本減る。でもどうせここで使うことはない。薄暗い会場では明るすぎる画面を消して、リュックの内ポケットにしまう。
入れ替わりにペンライトを取り出した。スイッチを入れて、ぽっと淡いグリーンが灯るのを確かめる。色を切り替えられるペンライトもあるし、複数のペンライトを何色も持っている人もいるけれど、僕が持っているのはオンとオフでグリーンに光るこの一本だけだ。
持ち手についているストラップに手首を通し(飛んでいくほど振り回すことなんてないけれど邪魔だし一応)、軽く握る。体の前で小さく振ってみると、グリーンの細い光はちらちらとおぼろげに揺れた。電池がもったいないので始まるまではオフにしておく。
四人組女性アイドルグループvoyageのライブに、こうして足を運ぶようになって七ヶ月ほどになる。そのとき僕がよく聴いていたバンドとvoyageの対バンライブを見たのが始まりだった。
顔を上げると、さっきよりライブハウスの中は人で埋まってきたようだった。僕の前に立つ人は、背中にvoyageとロゴの入ったブルーのパーカーを着ている。ブルーはユウのメンバーカラーだ。ボブカットでダンスの上手い子。僕の右隣の人はレッドのペンライトを既に光らせて、時々ウォーミングアップみたいにゆらゆら振っている。レッドはリーダーであるアリナのカラー。メンバーは偶数だけどアリナが実質センターのような存在だ。前方を見渡してもレッドのペンライトとTシャツが一番多く目に入る。イエローも多く見える。イエローはミオのカラーだ。背が小さくて小動物みたいな子。僕が応援するハルカさんのカラー、グリーンは正直言って多くはない。
ざわめきが気づけば大きくなってきて、会場はだいぶ混みあっていた。外に並んでいた人や物販にいた人たちが全員入場したようだった。
Tシャツもパーカーも持っていない僕がハルカさんを応援しているとここで示せるものは、このペンライトしかない。正直、Tシャツに三千五百円というのは、高校生である僕には高い。パーカーはもっとだ。それならCDの売り上げに貢献したい。
会場の照明がすうっと落ちると、呼応するようにざわめきも静まった。始まる、とわかってすかさず手元のスイッチを入れる。淡く光ったペンライトを意思表示のように掲げた。
特攻隊長。ハルカさんはそう呼ばれることがある。切り込んで来るのだ。ライブで曲の始まりとともに、あるいは一番見せ場のサビで、最後の最後で。声を張り上げ、歌う者と見る者のアクセルを全開にさせる。汗で前髪が顔に貼りつくのなんていとわない。アイドルらしからぬ単語を叫んで観客を煽る。物も投げる。客席にダイブするのを見た時なんて、特攻隊長って物理的にかよと思った。アリナやミオのような正統派アイドルが好きな人からは問題児のように言われることもある。
初めてライブを見た時、僕は、ずっとこれを求めていたと思った。眠っていた神経がびりびり刺激されて、体の細胞がそこで全部生まれ変わったと思った。一瞬で目が離せなくなった。なんだこの人はと思った。
でももしそれだけだったら、すごい人だ、で終わっていたかもしれない。
チェキ会のハルカさんは、ステージの上より距離が遠く思えた。
ステージが良かったことを伝えたくてその日、見に行ったバンドのCDを買うのをやめてvoyageのCDを一枚買った。順番が来ると、彼女は僕に穏やかな笑顔を向けた。それはあまりにも普通の人だった。「初めてですよね?」とこちらに訊ねるのも、どんなポーズで撮ろうかと話を振るのも、まるで世間話をしているみたいだった。隣に立たれるととても小柄だった。目線が自分より下にあることに僕は戸惑ってしまった。ステージの時の激しさはどこにもなく、真っ直ぐ目を合わせているのにここにはいないような、つかみどころがないまま、言おうとしていたことは何も言えないまま余韻だけ残して終わった。この人が本当に生きているのはライブなのだと思った。
そうして気が付けば、グリーンは僕にとっての特別な色になった。
アリナの長いツインテールと赤い衣装が広がって揺れる。アリナはそれだけでセンターの風格すらある。ミオは観客への目線やポーズの決め方がやっぱり抜群に上手い。
愛嬌で魅せるのがアリナとミオなら、パフォーマンスで魅せるのがユウとハルカさんだ。ユウのダンスはいつもカチッとハマる瞬間があって見ていて気持ちがいい。そして、可愛く見せようとか上手くやろうなんて気がまるでないような、ただ全部を出し切ろうとするようなハルカさんのダンスがあった。
今日も彼女の気迫にがつんとやられて(幸い今日はダイブしてこなかったので物理的にはやられなかった)、あっという間に終わっていた。がつんとやられたふらふら状態のままチェキ会に並んだら、さっきのが幻みたいに穏やかなハルカさんが「わ、今日もありがとう~」と笑顔で僕に言うけど、チェキ一枚は本当に一瞬で終わってしまうからこっちも幻みたいだった。
言葉にするといつも変になる。ライブの感動を全て言葉にするなんて無理だ。そう思いながらも、今日も熱が冷める前に覚えている限りをスマホに打ち込んでいる。
ライブの前後に物販でCDを買って附属のチェキ券を貰い、ライブ後にチェキ会が開催される、というのが基本的な流れだ。何枚も撮る人も多くて全体の人数以上に列は続く。僕はいつも一枚しか撮らないから、今日もすぐに終わってしまった。
列を横目に会場を出ようとすると、
「よー、渡辺くん」
と呼び止められた。振り向くと列の後方の一人が僕に向かって手を降った。
「あ、松田さん来てたんですね」
人の隙間を抜けて近づき、僕も声をかけた。数少ないファン仲間の一人だ。ロゴが四色になった全員バージョンのTシャツをいつも着ていて、特定の誰かというよりグループ全体のファンという人だった。
「渡辺くんちょっと久しぶりじゃない?」
手持ち無沙汰にチェキ券をもてあそびながら松田さんが聞く。
「中間テスト終わったのでようやく」
「高校生は大変だなー」
松田さんだって大学生だ。僕がそれを言うと、大学生はいいの、と松田さんは笑った。着古したジーパンとナイキのスニーカーとともに、松田さんのTシャツは普段着のように体に馴染んでいる。普段からこれで生活しているんじゃないかと思う。この姿で大学の講義を受けたりバイトに向かったり。でもここの姿しか知らない僕には、ここが真の彼の姿に思える。
松田さんはアリナと二枚撮った後、今日はこれからユウとも撮るのだと言う。「その日のライブが特に良かったメンバーと撮る」らしい。そんなこと言ったらいつもハルカさんが一番爪痕残してるじゃないですか、と僕がぽろっと言ったら松田さんは感心した顔で「その気持ちで応援し続けなよ」と僕に言った。一番好きだから一番良く見えるってことなんだろうな。と自分に苦笑する。僕はハルカさん以外と撮ったことがない。
松田さんは、僕が最初の頃に物販の並び方がわからず右往左往していたところに声をかけてくれた人で、何度かライブで会ううちに挨拶をするようになり、こうして会話をするようになった。
「じゃあ、また」
列の邪魔になってもいけないので、手短に会話を切り上げる。じゃあ、また。また次のライブで、の意味。
会場を出ると外はぬるい気温だった。いつのまにか寒い季節が終わっている。voyageのライブに行くようになったのは秋頃だったから、ライブハウスを出ると寒いのが当たり前のような気がしていた。Tシャツ一枚くらい買おうかな、と考える。ライブで毎回着て、バイトの行き帰りくらいなら外でも着て、部屋着にもして、ひと夏着倒そうかな。それなら三千五百円の元も取れるかも。
帰りの電車の中でvoyageの公式SNSを見ると、早くも今日のライブのお礼の言葉とともに、アリナの撮った四人の写真が投稿されていた。ハルカさんは、カメラに向けてというよりメンバー間で笑い合うときの顔をしていた。常に可愛くキメようという気があまりない人なのだ。メイクや私服にもあまりこだわりがないらしい。アイドルなのに。いいね、のマークにそっと触れる。
それからさっき打ち込んだメモを読み返した。興奮して打つから、「一曲目のイントロのハルカさんちょっと笑ってた?」とか「MC後の表情の切り替え」とか「ポーズを決めた時に後からの照明が神々しい」なんて、もはや箇条書きみたいなんだけど、とにかく一度文字にしておきたかった。そうすると頭の中にちゃんと残しておける気がした。
打っているのはLINEのトーク画面だった。送ったことはなかった。打って読み返して、頭に残ったと思ったら、それで消してしまうのだった。相手のアイコンはデフォルトの画像。たぶんサブアカか、使われていないアカウントだ。
〈ハルカのLINE ID〉の噂を僕がネットで知ったのは、ライブに行くようになって二、三ヶ月目くらいの頃だった。ハルカさんのパフォーマンスのやばさをようやくわかり始めた頃でもあった。
「なんか、あるらしいよねぇ」
僕が訊ねると、松田さんはすごくくだらないという口調でそう返した。
パフォーマンス中、ハルカさんが観客を煽る勢いの中で、文句があるなら言いに来いというような流れで自分のLINEのIDを叫んだのだという。それは曲と歓声にかき消され、前方にいた一部の観客だけが聞き留め、聞き留めた観客の一部が記憶し、記憶した中の一部からこうして情報が流れている、という話。
「嘘でも本当でもいいけどね、どっちでも」
松田さんは言った。だって、確かめようもないし。そうですね、と僕も返した。それは本当にそうだと思った。IDを検索すると確かにアカウントがあった。デフォルトのアイコン画像に、イニシャルH.S。どうとでも解釈できるようなものだ。確かめようはない。
でもそのまま無視はできなかった。自分がメッセージを送って、万が一本当にハルカさんに届いてしまったらと想像する。それはあってはいけないことのような気がする。
なら、そんな画面は開かなければいい。文字を打ちたければメモアプリに書けばいい。そうすれば全部保存しておける。うっかり送信ボタンに指が触れてしまう恐れもない。そう思っていながらトーク画面に文字を打ち込むのが習慣になった。
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