代演

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 どっちも、というのは即ち。  いま、俺の目の前にいるのは「コトミ」ではないのか?  待てよ。じゃあこの女は誰で――。 「先に白状してくれたから言うけどさ。あたしも『コトミ』じゃないんだよね」 「嘘だろ」 「確かにこれまで嘘はついていたけど、今言ったことのほうが本当だよ」  湯気が消えかけているコーヒーを一口含んだ後、コトミ「だった」彼女は、コーヒーにミルクを落とすときのように、静かに呟きはじめた。 「コトミは、あたしの友達。あなたと同じで、あたしはコトミであるように振る舞って、相手の男と会ってきてって頼まれただけなんだよ」 「ってことはコトミもヒグルマが好きで、ええと――」  彼女は微笑みをたたえながら「セイラだよ」と名乗った。その名前が本当かどうかは脇に置いて、俺は話を再び先に進めた。 「セイラも、ヒグルマが好きで」 「そう。もとから、それきっかけで仲良くなった子だからさ。あたしは次のツアーの抽選に落ちたんだけど、コトミが複数枚申し込んだチケットの一枚をあたしに譲ってくれるって言ってね。その交換条件が、今日の替え玉ってわけですよ」 「そりゃいいなあ。俺の報酬なんて、天ざるそば一杯だぞ」 「それは偽者をやらされるにしては安すぎでしょう」  さっきまでのテンションの上がっていた様子こそ、俺は彼女の「素」だと思っていたが、きっとそれすらも誤りだった。緊張からくるよそよそしさも、他人を演じることによる無駄な肩の力も抜けている今こそが、本当にセイラの「素」なのだろうと思う。  いま思い返してみたら、この店に入ってからのセイラの台詞も矛盾がある。  先輩によれば、二人はずっとその話題で盛り上がっていたはずなのに「あなたもヒグルマを『好きだって聞いた』んですけど」などと言うのはおかしい話だ。あと、普段から先輩は「アップテンポの曲が好きだ」と言っているが、俺はセイラの言葉を聞いて、普通に先輩ではなく自分自身の嗜好である「バラードが好きで」と話してしまう失敗を犯していた。それにもかかわらず、セイラは「いいですよね」と乗ってきたし、さっき「周りにバラード好きがいない」とも話していた。  つまりは。 「もしかして、本物のコトミはアップテンポが好きだったりするのか」 「そうだよ。というかあたしは『相手の男と趣味が合うんだよね』って聞いてたから、当然相手もアップテンポが好きなんだろうなーって考えてたんだよね。なのに蓋を開けてみたらバラードが好きだって言うから、一瞬『あれ?』とは思ったかな。でも、あたしはあたしでやっと理解者に出会えたってことのほうが重要だったもん」  頬杖をつきながら、やわらかに笑うセイラの表情は可愛らしかった。なんならちょっと、好みですらある。さっきまで俺も緊張を解くことができなかったし、相手の女のことにそこまで注目することもなかったが、今は状況が異なっている。  今頃、先輩やコトミとやらは(あいつ、知らん異性と何喋ってんだろうな)と思いつつ、何をしているのだろうか。そもそも気にも留めていなかったりして。  ああ。 「そういえば、俺にとってはもはやどうでもいいことだけど、本物のコトミは今日どうしたんだ」 「うん? なんか本命の男とのデートが今日にズレたんだって。残念だけど、あなたの先輩が素直にここへ来てたとしても、なんの実りもない無駄な時間を過ごすことになったんじゃないかな」  今日、俺にコトミとのデートを押し付けてきた先輩が何をしているのかは知らないが、先輩が俺という人柱のおかげで無駄な時間を過ごさないで済んだんだと思うと、なんだか癪に障るな。素直に「いい気味ですね」と笑ってやることもできないではないか。  チリ、と胸の痛む感覚を鎮まらせたのは、その後に続いたセイラの一言だった。 「もっとも、それはコトミとあなたの先輩にとっての話であって、あたしには関係ないから」 「へ?」 「どう、これも何かの縁ってことでさ。化けの皮が剥がれた者同士で、今日は仲良く遊ぼうよ」  延長戦。アンコール。宝くじへの高額当選。俺がジジイになった頃の年金。  ありえねえよな、と思っていた展開が目の前のテーブル上を滑ってきて、今度は俺がきょとんとしてしまった。 「いいのか?」 「いいよ。コトミにも言われてるから。『相手が好みだったらそのままもらっていっていいよ』って」  どうやら先輩と同じことを言っていたらしい。それは気の合う仲間でよろしいね。やってることは唾棄すべきことだが。  先輩からはともかく、コトミから先輩に向かって伸ばされる線の存在はない。しかし、明後日の方からやってきたベクトルが、先輩ではなく俺のことを貫いていく。  待て。まだ慌てる時間じゃない。さっきのはあくまでコトミの台詞であって、セイラが俺にどんな印象を抱いているのかということとは別問題だ。結論を急ぐな。急いては事を仕損じる。風雲急を告げるように、頭の中の会議室が騒がしくなるのを感じた。  とはいえ、こんな面倒な役割を押し付けてきた先輩にひと泡吹かせてやるには、絶好の機会であることには違いない。おそらくセイラにとってのコトミは、同じ位置づけにいる存在のはずだし。  俺とセイラはともに影武者であり、犠牲者であり、理解者だ。俺たちにしか分からないこともたくさんあるだろう。  たとえば、ヒグルマのバラードの良さとか。  たぶん他にもあるのだろうが、それは「役」を脱ぎ捨てた、これからの俺次第だ。  すっ、と無駄な力が抜けていくのを感じると同時に、俺は「よかった」と呟いていた。 「何が?」 「貴重な休日が、ようやく意味を帯びてきた気がする」 「言えてるね。あたしも、これでうまくいったって得がないじゃん、って思ってた。でも今は違うから」  テーブルの隅で寝くさっていた伝票をひったくって、席を立つ。察したセイラも、悪ガキみたいな笑みを浮かべながらハンドバッグを手にとった。 *  店を出ると、まだ太陽は高いところでほっつき歩いていた。今日はまだ終わらない。ガキの頃みたいに、なんでもできてしまいそうな全能感が足元から脳天に抜けていく。  半歩後ろにいたセイラが、すばやく俺の隣に歩み出てきて「そういえばさ」と訊いてきた。 「なんだ」 「あなたの本当の名前、教えてよ」  今日ばかりは、正直者が馬鹿を見るなんてこともあるまい。もう自分ではない誰かに化ける必要もなくなった。なにより、ここでもったいぶっていたらセイラすらもそっぽを向いてしまうかもしれない。  うまく言えないんだけど、なんだかそれは、嫌なんだよな。  この感情に名前をつけるより先に、今は彼女へ正体を明かすことが先決だろう。  ゆっくり足を止めて、セイラのほうに向き直る。 「俺は――」 /*end*/
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