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おまえの代わりに連絡しておくから……と事前に服装を決めて先輩に言わなければいけなかったのも、気だるさに拍車をかけていた。気分や気候によって着る服も変わるだろうし、そもそも俺はいいとしても、それ聞いた相手の女だって困るだろうに。あー私も言わなきゃいけんやつかな、みたいな。
コンコースの天井を支える柱に身体をもたれて、俺は未だに顔も声もわからない相手の女を待った。俺は貴重な休日に何をしているのだろう。うまくいったらもらってっていいだなんて、相手の女が俺の好みに合致するかもわからないのによく言えたものだ。逆も然りだが。
ただ、こんなことを承諾している時点で、俺が先輩の胸ぐらを掴んで糾弾することなんてできるはずもなく――。
「あの、もしかして『サンゴ』さんですか?」
明らかに俺に向かって声が刺さり込んできたことで、俺はスマートフォンから視線を引き剥がした。ベージュのニットワンピースに身を包んだ女性がこちらを見つめている。彼女のアウトラインを描く、やわらかな曲線が目を引いた。なお「サンゴ」は先輩のハンドルネームだ。理由を聞いたら「身体のゴツゴツさがサンゴに見えねえかよ」なんて地獄みたいなことを言われたっけ。
そんな「サンゴ」たる俺に声をかけてきた女性は、俺のことを特に疑ってはいないようだった。
「すみません。お待たせしちゃいました?」
「全然。こっちも今来たところです」
まあ数分待ったところで目くじらを立てたりはしないし、そもそも彼女は待ち合わせ時間より五分前にやってきた。何らの問題はない。
彼女は数秒遅れて「あ、ごめんなさい。名乗ってなかった。コトミです」と、どこか愉快そうに笑っていた。ありがたい。こちらの緊張もほぐれるというものだ。ただでさえ俺は、なんの術も使えないのに別人に化けることを求められたプレッシャーに苛まれているから。
とりあえずカフェにでも行きましょう、とコトミが駅の外へ歩き出す。俺はだまってそれに続いた。
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先輩からの事前情報では、先輩とコトミが意気投合したのは、好きなアーティストに関する話らしかった。たまたまそれは俺も好んで曲を聴いたりライブに顔を出すアーティストだったということもあり、俺にお鉢が回ってきたのだろう。それ以外に何か話していないのか……と問うてみたら、先輩が「んー。あ、中華好きらしいぞ。俺は和食派だけど」という、長さが何メートルあるか見当もつかない蛇足がついた情報だけがもたらされた。
アドリブだけでどうにか保たせるしかないだろう。俺の振る舞いを見て、コトミが先輩のアカウントを運営へ通報するようなことにならなければそれでいい。それさえ防げれば、別に俺はコトミと無理に近づく必要もない。もっとも、この一回のデートで近づける距離なんてたかが知れているけれど。
カップの中のコーヒーから立ち上る湯気を透かしながら、コトミが唇を開いた。
「そういえば、サンゴさんも『ヒグルマ』の曲が好きだって聞いたんですけど」
「あー好きですね。バラード系の曲が」
事前に聞いた話から、おそらくコトミも、俺と先輩に同じくアーティスト「ヒグルマ」のファンなのだろうとは察していた。だから俺としては何気なく答えたつもりが、コトミは一瞬目を丸くしたかと思うと「いいですよね!」とわずかに身を乗り出してきた。ここで新情報。どうもコトミはバラードが好きらしい。
「どっちかっていうといつもアップテンポの曲が評判になりがちですけど、ヒグルマの真骨頂ってバラードだと思いません? って言うかもうお互い敬語はナシにしませんか? 同じヒグルマファンのよしみで」
「えーと、コトミさん。コーヒーに何か混ざってた?」
「全然。なんなら私、砂糖もミルクも入れてないもの」
「まあそうだけども」
「それより、それより。サンゴさんはバラードだと、どの曲が好き?」
食い気味に話すコトミは、さっきまでの落ち着いた様子はどこかに吹き飛び、ぎっしりと品物がひしめく棚の中からようやく目当ての品を探し当てたみたいにテンションが上がっている。
いきなりの展開に面食らっているのは事実だが、俺としてもそれは喜ばしいことだ。常日頃からコトミと同じことを思っていたから。
「俺は『アオハル』が好きだけど」
「あーあーあーあー、すごく分かる。私も好き。いやーこれだけで今日来た甲斐があったなあ」
「周りに話の合う友達がいなかったから?」
「すご。サンゴさん、読心術?」
「まさか。本心からそう言っただけだよ」
まあ、俺は今もあなたを欺いているわけだが。
そうやって余計な一言が脳内で付加されたとき、俺は一瞬でさまざまなことを逡巡した。
コトミは俺を待ち合わせの相手だと信じて、今もあれやこれやと楽しそうに話をしている。おそらくは今のコトミの姿こそが「素」なのであって、駅の改札で静かに声をかけてきた時はまだ警戒心を解いていなかった状態なのだ。そりゃあそうだよな。先輩から聞いた話をふまえて考えると、お互いに顔も声も分からないままで初対面を果たしたということになる。だからこそ俺は未だに何食わぬ顔で「サンゴ」、すなわち先輩として話を続けることができている。
ならば、俺がこのままサンゴに化け続けることは、コトミが見せてくれたサンゴへの素直さを裏切ることにならないか。ならないか、って言うか、なるんだよ。今更ながら天ざるそば一杯ごときで俺にこのような大罪を犯させている先輩に対して腹が立ってきた。あの場で先輩の頭を押さえつけて、耳から蕎麦湯を流し込まなかった自分にも腹が立つ。ナントカとかいう蕎麦の成分で少しでもその汚れた心が清められたらいいのに。
やっぱり俺は、自分にも他人にも嘘がつけない。ガキの頃からそうだった。小学生の頃、クラスのいじめを見て見ぬふりできずに告発した時だって、例によってその後は俺に矛先が向いてきたけれど、間違ったことをしたなんて一ミリも思わなかったし、周りの大人たちはみんな俺に味方してくれた。理由はともかく、間違っていることは間違っていると言うべきだし、自分が間違ったことをしたっていう自覚があるなら、しっかりアフターケアすべきだ。
肚は決まった。
何も知らず、今も「いやあ去年のツアーの演出はすごくよかったよ。まさか暗転後に、今度は会場の最後列の後ろがメインステージになるなんて」などと歌うように話すコトミに向かい、俺は手を挙げた。
「ん? どうしたの、サンゴさん」
「いや、ごめん。……本当は俺『サンゴ』なんかじゃないんだ」
そこで「えっ」とか「嘘」とか何か言ってくれたらよかったものを、コトミはその言葉を聞くと何も発さずに、ただポカンとした表情を浮かべていた。人は本当に驚いた時、こういうリアクションをするのだろうか。話しづらさがみるみるうちに上がっていくのを感じ、俺は話を続けた。
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