想いは混ざり固結する

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「あー、もう。全然うまくいかない……」  実験結果は散々なものだった。  しっかりと固化しているはずの供試体の隙間から補修剤がパラパラと零れ落ちる。これでは強度試験をするまでもない。コンクリートのなりそこないを片付けると、実験ノートに結果を記載する。  流動性を高めようとすると強度が不十分になる。強度を上げようとすれば作業性が犠牲になる。目指すのはその二つのバランス――ではなく、その二つを高い次元で両立させること。いうのは簡単だけど、それはかなり高いハードルだった。  最初のうちは材料特性を踏まえながら方針を立てていたけど、近頃は総当たりのようになっている。それだって上手くいっているとはいえない。このまま当たりを引くまでトライアンドエラーを繰り返すか、スタート位置まで立ち戻って一から考え直すか。  いずれにせよ、次の方針を考える必要がある。実験室をある程度片付けて研究室に戻ると、部屋の一番奥の一角だけ明かりが灯っていた。そこに座っていた木永君が私に気づくと小さく手を上げる。 「ん、涼香。遅くまでご苦労さんだな」  秋の夜長の研究室は暖房もついていなくて少し肌寒いくらいだったけど、木永君は長そでシャツを肘までまくっていて、学生時代に鍛えられた筋肉が姿を覗かせている。 「お互い様」  壁にかけられた時計を見ると23時を過ぎていた。完全に夜型生活をしていた学生時代ならまだしも、朝から仕事がはじまる社会人としては望ましい時間ではない。一つ息を吐き出しながら木永君の隣の席に腰を下ろす。木永君のパソコンの画面には橋脚を近くから撮影した画像が何枚か写っていた。 「解析は順調?」 「まあ、後は現地試験で性能を見るって段階までは来たかなあ。涼香は?」  グッと伸びをしながらこちらを見る木永君に、私は黙って首を振って返す。木永君は苦笑気味に笑って立ち上がると、私の肩にポンと手を置いてから研究室の片隅に設けられた急騰スペースに向かった。コポコポという音とともに香ばしい珈琲の匂いが立ち上る。 「私の担当だけ明らかに進捗遅いよね。マズいなあ……」 「他の分野は大なり小なり知見があった部分だから。涼香の担当はほぼゼロからのスタートに近かったろ」  木永君はそんな励ましとともに私のデスクの上にコーヒーを置いて席に戻る。早速コーヒーを飲む木永君に倣って一口含むと、近頃ずっと凝り固まっている肩の力が少しだけほぐれた。 「それに涼香は昔から、やると決めたことはやりとげてきただろ。今回も大丈夫だって」  笑みを浮かべる木永君に曖昧に頷く。  木永君とは幼馴染――というより何か腐れ縁に近い。小学校は同じだったけど、中学は木永君の家が県外に引っ越して別。かと思えば木永君は陸上のスポーツ推薦で私と同じ高校に通うこととなった。そこからまた大学は別のところに行ったけど、大学院で専攻こそ違えど――私は化学で、木永君は土木工学――再び同じキャンバスで学ぶことになった。 「今回ばっかりはプレッシャーが違うから」  つい弱気な言葉が漏れてしまい、木永君は困ったように眉を寄せる。  大学院を出て再び別々の道を歩み出した私たちだけど、不思議な縁で再びこうして机を並べて研究をしている。 ――次世代技術導入促進開発プロジェクト――この国に今後訪れる課題について技術的側面から解決に挑む国家プロジェクト。課題に対応するための一連技術をパッケージ化して開発に取り組むこととなっており、複数の企業や研究機関が共同して研究を進めるための研究室や実験室も提供するという力の入れようだった。  そして総合化学メーカーの研究員として働いていた私は「UAV等を用いたインフラの自動点検補修システム」の研究グループの一員として、土木測量系の会社に勤めていた木永君と再び机を並べることになった。同じ所属になるのは大学院を出てから5年ぶりだ。 「確かに、涼香が担当してる補修剤の性能が俺たちのプロジェクトの肝かもしれないけどさ。涼香が担当するところまでいいパスを出すのは俺たちみんなの仕事だし、一人で気負い過ぎるなって」  その中で、私の担当する補修剤の研究開発の進捗は他のメンバーに比べて遅れていた。補修剤自体は既存のセメント系のものが存在するけど、今回はUAV等からの噴霧で容易に施工ができることが求められ、セメント系に限らない新たな補修剤を開発する必要があった。  木永君の言葉に頷きつつ、珈琲をもう一口含む。失敗続きで重くなっていた頭が苦みとカフェインで少しだけクリアになった気がした。みんなの仕事、いいパスというワードが何かを手繰り寄せるように頭の中で駆け抜ける気配を感じつつ、その何かを掴めないままするりと逃げていってしまう。 「ありがとう。でも、プレッシャーっていうのはそれだけじゃなくて」  木永君は不思議そうに首をかしげる。 「今回のプロジェクトって、木永君の目標……というか夢の一つの形みたいなものでしょ?」  私の言葉に木永君はハッと目を見開いた後、渋そうな表情で唇を尖らせた。珈琲を飲む素振りとともに視線がすっとそらされる。 「酒飲みながら語った話なんて忘れてくれよ」 「なんで。真面目な話じゃん」 「だから恥ずかしいの。俺には似合わないだろ、そういうの」  木永君は私の方を見ないでパソコンの画面を見ながら口元でぼそぼそと返事をする。部活にも勉強にも、決めたことには真面目に取り組むくせに木永君はそう見られることを嫌がる。曰く、理想を語ると勝手にハードルを上げられるとか言っていたけど、今はその理想みたいな光を見たかった。 「いいじゃん、せっかくだしもう一回教えてよ」 「お前、俺の話聞いて――」  木永君がこちらを振り返ったところでその言葉は途切れた。私の顔をじっと見た後、長々と息を吐き出し、それから隙間を埋めるようにカップに残ったコーヒーをぐいっと飲み干した。 「高校生2年生の頃かな、トンネル崩落事故があって。巻き込まれた人が出るような大きな事故で。俺たちが住んでる場所からは縁遠い場所のはずなのに、何故か他人事に思えなくて」  木永君はふっと息を吐き出して、空になったカップの底をじっと見つめる。 「大学でも陸上やって、実業団に進んで。ずっと陸上に携わって生きていくのかなって漠然と考えてたけど。そのニュースが走ってるときもいつも頭から離れなくなってさ。ホント、何がそんなに印象に残ったのかはいまだにわからないけど」  木永君は困ったように笑ってパソコンの画面を私の方に向ける。そこに映っているのは先ほどと同じ橋脚のコンクリートを近距離から撮影した画像。よく見ればそこにはいくつかの亀裂が映し出されている。これが木永君の専門分野。 「頭に残ってるのも一時的かなと思ったらそうでもなくて、結局大学は工学部の土木学科に進んで。陸上は続けたけど、どっちかっていうと研究メインの生活になって。今でもそれを仕事にして、あの日からずっとぽっかりと空いた傷跡を埋めるみたいに何かを追いかけたままだ」  木永君がキーボードを操作すると、薄っすら見えていた画面上のコンクリートの亀裂が明確に浮かび上がる。インフラ施設の点検画像の解析技術。木永君は画像を自動でリアルタイムに解析する技術者としてこのプロジェクトに参画している。私の担当がゴールなら、木永君の担当はスタートに近い。  UAVが自動で撮影した画像から損傷個所を割り出し、補修が必要な部分はその場で補修を行っていく。この国の無数に存在する老朽化したインフラの点検から補修を自動化する技術群。それが私たちのプロジェクトの概要だ。 「懐かしいな。進路の話をしてるときに木永君が工学部に入るって言い出した時、誰かが木永君に化けたのかと思っちゃった」 「何だよそれ……って言いたいけど。俺はあの日にテレビの向こう側に見た事故に、未だに化かされてるのかもしれないなってたまに思う」 「化かされてる?」 「忘れるな、風化させるなって。生き物ですらない事故って存在から化かされてこの道を歩いているような……自分で言っててありえないって思うけど、化かされてるならそれでも構わないかなって最近は思ってる」 「どうして?」  木永君がスッと小さく息を吸い込んだ。 「二度とああいった事故が起きないようにするのが目標だって、今ははっきり言えるから」  静かな研究室によく響く声で木永君は宣言すると、そのままグワーッと頭を抱えて机に突っ伏した。そんな木永君の様子に思わず吹き出してしまう。言ってることもやってることも立派だと思うのに、それを認めたがらない木永君の姿は子どもっぽさと大人っぽさがない交ぜになっているように見えた。少しだけ涙目な半眼で私を見る木永君の仕草が私は嫌いじゃない。 「ほら、これで満足かよ」  唇を尖らせながら木永君は投げやりに言い捨てる。 「うん、満足」  珈琲を飲んだときよりも肩の力がほぐれて、頭がスッと冴えていく感じ。別に何か問題が解決したわけではないけど、揺らぎかけていた軸がぐいっと整えられたような。 「私はそういう目標みたいなのってなくて、ただ化学が好きってだけでここまできたから。だから、私が頑張れば木永君の夢を通じて世界の役に立てるっていうの、シンプルですごいいい」 「え、と。涼香っ……」 「それにね、化学って『ばけがく』って読み方をするくらいだし、木永君が化かされてるっていうんなら、相性いいと思うんだ。だからね、私も精一杯頑張る」  ふと気づくとじっと木永君がこちらを見ていて、急に顔が熱くなってくる。完全に自爆だけど、数刻前の木永君の気持ちを理解する。深夜テンションに片足突っ込んでるとはいえ、これはどうにも――恥ずかしい。 「そっ、それだけじゃなくて。エンジニア同士、木永君に負けたくないっていうのもあるからっ!」  とっさに思いついたのは取ってつけたような誤魔化しだった。木永君は一瞬ポカンとした後、堪えきれない様にくつくつと笑いだす。それからすっと私の前の飲み終わったカップを手に取って、再び給湯スペースへと向かう。 「それなら、今夜はもうひと踏ん張りしないとな」  優しく笑う木永君に胸の奥がグルグルとする。 「あの、木永君に負けないようにって言ったんだけど!」 「敵に塩を送って塩分過多にするのが趣味なんだ」  そんなことを言いながら木永君は小さく笑って次の珈琲をカップに入れると、湯気をたたせながら戻ってくる。ありがたく受け取って息を吹きかけて冷ましていると、木永君はそのままコーヒーを口にしながらパソコンの画面を切り替える。 「そもそも、涼香はここに来るまでコンクリート自体あまり馴染みがなかっただろ?」 「うん。亀裂が入る原因もこの研究に携わってから初めて知ったくらい」  普段よく目にするコンクリートだけど、その性質のことはよく知らなかった。そのコンクリートがひび割れる原因も様々で、コンクリート中の水分が凍結し膨張することで亀裂が入ることもあれば、塩分で鉄筋が腐食して膨らみコンクリートがひび割れることもある。もちろん繰り返し外力が生じることによる疲労もあれば、設計が起因することもあるようだ。  そして、一度ひび割れが生じるとそこから水分が入り込み、更なるひび割れに繋がっていく。その辺りは人間関係にも似ている気がするけど、とにかくいち早くひび割れを塞ぐことがコンクリートインフラを維持管理するポイントの一つだ。 「そう言えば知ってるか? 一度打たれたコンクリートっていうのは基本的に劣化していくんだけどさ、中には例外があって」  木永君のパソコンの画面にはローマのパンテオンの写真が映し出される。 「パンテオンは世界最大の無筋コンクリート構造物といわれてるんだけど、そこに使われているコンクリートがちょっと特殊なんだ。ローマン・コンクリートっていう火山灰が使われたコンクリートでさ」 「火山灰? それって何か凄いことなの?」 「ローマン・コンクリートでは火山灰が入ることで海水と石灰と火山灰が反応した熱で特殊な化合物が生成される。それが水と触れるとその化合物が炭酸カルシウムに化けて亀裂を埋めたり、コンクリートの強度を高めたりするらしい」  2,000年前に造られたコンクリートが成長し続けるというのは信じられないような思いととともにロマンを感じる。それから、炭酸カルシウムという言葉がチリチリと頭の片隅を刺激する。これまで失敗してきた補修剤のレシピと何かが結びつくような。 「それから、最近は微生物を使った自己治癒コンクリートみたいなのも開発が進んでて。コンクリートに亀裂が入ると、中に封じ込められた微生物に水分が入り込んで、微生物が炭酸カルシウムでひび割れを塞ぐ仕組みだ」  無機物のコンクリートと有機物の微生物という組み合わせ。本当に世の中色々なことを考える人がいる。それにしても。 「そんなコンクリートがあるなら、私たちが開発してる技術って無駄にならない?」 「これまで造られたコンクリート構造物がどれだけあると思ってるんだよ。俺たちの研究成果は少なくとも向こう百年無駄にはならない」  木永君の言葉に頷きながら珈琲を口にする。まだ珈琲は熱を残していて血が巡っていく感じがした。水と反応して強度が増すコンクリート、微生物による補修。それから、みんなの仕事、いいパスという木永君の言葉。ボロボロと供試体から零れ落ちた失敗品。  不意に電流が走るみたいに全てがバチンと繋がった。その感覚が逃げていかないうちに実験ノートを捲る。木永君が教えてくれたコンクリートに似たような反応が出たケースがあったはず。その時は不純物が生成されて失敗したと思っていたけど。 「木永君、補修試験用のコンクリートの供試体ってまだあるかな?」 「実験室にはまだあると思うけど、今から試すのか?」 「うん。この感触を忘れないうちに……ダメかな?」 「いや、やろう。涼香は補修剤を用意するんだろ? その間にこっちは準備しておくから」  言うが早いか木永君は椅子にかけていた作業着を羽織るとぐいっとカップに残る珈琲を飲み干した。そのまま研究室の外に出ていこうとする木永君が直前で足を止める。 「頑張れよ、涼香」  その声に頷いて、私も白衣を羽織る。ここからは勝負の時間だ。
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