狐狸ム中

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人には言えない趣味があることを除いて、私は平凡な人生を歩んできた。  平凡、とは得難い幸せである。基準がないのだ。  幸せも定規がない。他人を基準にすると大変つらい思いをするので、私は自分の中で争いは極力避けて暮らしてきた。  なのに、私は今バーから出て二人の男を追いかけ回している。ストーカーと言われてしまっては仕方のない風景かもしれない。しかし、私は藁にもすがる思いで二人を追いかけている。  二人は、いや、男女のカップルだったろうか。  考えているうちに、私の背後に迫る影が速度を増した気がした。 「す、すみません」  大声で声を掛けると、影が立ち止まる。  一瞬だって目は離さなかったはずだ。私の前にいるのは、一人の男がゴムボールを持っているだけだった。 「なんだ」  ドスの効いた大柄な男の声に、私は気圧されてしまう。しかし、事は急を要する。 「吉田さんは、どちらに」 「誰だそれ」 「私の同僚の吉田さんです。バーで、見かけたのですが」  大柄な男は不思議そうに持っていたゴムボールを見た。  私も何とはなしにボールを見る。 「ふうん」  男はそれだけ言うと、ボールを左右から押したり引いたりして遊び始める。  まさかとは思うが、私はそのボールが不憫に思えて仕方なくなった。まるで、友人に責められているような居た堪れなさを感じた。 「あの、何をされているんですか」 「別にぃ。あんたこそ、その吉田さんに何のようだ」  男がボールを左右に引っ張ると、破れてしまうのではないかと思うほど伸びる。  前方の思わぬ驚異に私は怯むが、負けちゃいられない。 「一緒に帰ってほしくて」  子供みたいな言い方に、私は顔を赤らめるしかなかった。  良い年した社会人が、人をつけ回しておいて言う台詞だろうか。しかし、私にはそれ以上の理由はない。  助けてほしい。  たまたま会社の新人をバーで見かけ、そして同じバーで私を苦しめる人物に出くわしてしまって藁にも縋る思いなのだ。 「ふうん」 「ど、どうか」  声が勝手に震えた。  背後から聞こえてくる全く聞こえない摺るようなヒールの音はもうしない。もうしないが、気配はする。  後ろを振り向けないほどの圧だ。 「それってえと、あいつと関係あるのか」  男の太い指が私の背後を指す。  私は振り向くしかなかった。  数メートル離れた街灯の下。いる。美しい長髪の、かつて尊敬していた女の先輩だ。しかし、面影は見えない。  爛々と光る眼は、狐か化け猫だ。 「あ、あ」 「びびって声も出ねえか」  自分でも情けないとは思う。会社のいざこざをプライベートにまで持ち込んでしまうなんて。  男は呑気にボールを地面にバウンドさせながら、悠長に女性を見ていた。 「かなえちゃん。どうして逃げるの」  先輩は、冷え冷えするような猫なで声で言った。  踞る私を飛び越えたのは、巨体の男だった。先輩から私を守るように間に入り、尚もボールを地面に叩きつけては跳ね返して遊んでいる。 「見りゃわかんだろ。お前がびびらせてるんだよ」 「なんだと」  私は先輩の声に耳を塞ぐ。 「人間ってのは面倒な生き物だな。なんでそうしつこいのかね」 「てめえ、狐狸か」  男のボールを弾く音が止まる。 「なに」  先輩のつんざくような笑い声が住宅街に響いた。しかし、周りの家はまったく気にもしない様子で、窓すらも開かない。  野生の狐が鳴いただけ、とでも言いたげだ。 「聞いて驚くぞ。俺ぁ、鳥羽上皇の寵姫だったかの有名な狐狸さ」 「どいつとこいつも。姫は私、だろうが。ああでも、吉原の女たちが言ってただけか」 「ごちゃごちゃうるせえよ! その人間をよこしな。俺ぁ、その人間を飼うんだ」  私は踞って地面を見ることしか出来ない。  新入りの私に優しくしてくれた先輩はどこに行ってしまったんだろう。  男を隔てて姿の見えない先輩は、まるで別人だ。何を言っているのか分からない。  あの優しさは、すべて支配するためだけの嘘の優しさだったのだろうか。狐に摘ままれたようだ。  「悪い狐狸には、うんざりしてんだ」  男が、ボソリと言った。 「あん、なんだよ」 「俺のダチもそう言ってら」   だから何が、と先輩の声がすることはなかった。  男の全力投球したゴムボールは、凄まじい勢いで先輩の額に直撃した。そして、顔を覆う弱った先輩を見て、私は漸く立ち上がれた。 「馬鹿やろうっ」  声は、不思議なことにここにはいない吉田さんの声だった。  私が立ち上がった瞬間、頼りない足取りで私に近づく先輩が見えた。おろおろしているのに、その手は男を押し退け私に伸びる。  その手を、見たこともない女性が捻りあげた。  ニットにスカート、キャメル色のブーツの女性。  先輩は文字通り煙になって消えた。  当然ながら、私は情報処理が追い付かず意識を手放すしかなかったのだ。  
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