狐の嫁入り

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男は、この世の俗世から離れた生活を送っていた。大工の家庭に生まれ、父親の跡を継いだ。男は、大雑把な父親とは違い、緻密で真面目な男だった。そんな男は、大工としての仕事と勉強に自分の人生の時間を費やし、誰からも慕われる一人前の大工になった。その男の名は、片倉 慎之助。大工仲間からは之助と呼ばれていた。 之助は、給料日も、誕生日も、どんな祝い事があろうとなかろうと、飲み屋にはほとんど行かなかった。大工仲間が女遊びにかまけている間、之助は一人仕事のことばかり考えていた。之助も人間で、一人の男であるから、そのような俗な事に興味が無いわけではなかった。しかし、周りからの信頼と客のことを考えると、やらねばならぬという責任感が彼を仕事に掻き立てていた。 ある時、之助は古い神社の修繕に当たることになった。その神社は、稲荷神社であり、赤い鳥居をくぐり抜けると、狐の石像が待ち受けていた。その石像を手入れしながら、神社の神主である依頼人は之助達大工に忠告した。 「お稲荷さんは、好き嫌いがありまして、嫌われた方は具合が悪くなるので、もしそうなられた方は私に言ってください。だからと言って怖がるとそれもまたお嫌いになられますので注意してください」 大工たちがざわざわとしていたが、私はそれよりも仕事の内容が気になり質問した。 「結構、老朽化が進んでますね。ここは古いんですか?」 「ええもうだいぶになります、狐の里の伝承を知っておられますか?その時からあるのです」 「なるほど。それで、依頼の本社の屋根の穴は?」 「ああ、こちらです」 狐の里の伝承か。それは、この地方に住んでいる者なら誰でも知っている。狐たちが人のように生活している里で、そこに迷い込んでしまったものは帰ってこない。狐隠しに遭うというものだ。そもそも存在しているのかも分からない。地図上に里など存在しないというものもいれば、霧や雨風が吹き荒れる時にだけ現れるというもの。様々だ。「狐だけには絶対に近づいてはならぬ」と母がよく言っていたな。母は昔、よく狐の話をした。母の話で特に印象的だったのは、狐隠しにあったものは、男ばかりであるという話だ。狐は女にしか化けれないという言い伝えがあり、絶世の美女に化け、人間の男を誘惑する。そして、里へ招き入れられ、狐隠しに遭う。そして、惚れさせた男だけを狐は同じ狐として化かすことが出来るらしい。狐になった男は一生狐として生きていかなければならないという恐ろしい話だ。 「之助!おい!之助!トンカチ取ってくれ!」 「ああ、悪い」 「おいどうした、お前らしくないな。具合でも悪いのか?」 「いや別になんでもない!」 之助は、話を思い出して少し手を止めていたが、いつも通り集中して仕事をするモードに入った。そうなると之助を止められる者は誰一人としていなかった。とてつもない集中力で修繕していく。ほとんどの仕事を彼一人が賄っているかのような仕事量だった。夕暮れの神社、同僚達が仕事を終えて帰る中、之助だけは居残りで修繕作業に当たっていた。自分が頑張らなければ、作業は予定通り進まないと思ったからだ。手が疲れてきて少し作業をとめた時、神社の奥の茂みが揺れる音がした。何事かと思いそちらを見つめると、その茂みから現れたのは、一匹の真っ白な狐だった。その狐は此方へのそのそと近づいてくる。之助は思わず、その狐と目を合してしまった。狐の方も之助の方をじっと見ていた。その時、之助の頭の中で母の声が呼び起こされれた。「狐には絶対に近づいてはならぬ」之助ははっとして、後退しようとしたが、それを辞めて逆に狐の方へ近づいた。之助はあることに気づいたのである。白い狐の左後ろ足に切り傷があり、血を流していた。それに気づいた之助は母の忠告など気にせず、身体が勝手に動いていた。之助は、大工道具入れの中から、綺麗なバンダナを取りだしそれを狐の足に巻きつけてやった。狐は満足したかのように、こちらを見つめながら踵を返して、茂みへ戻っていった。之助はこれまでの大工仕事で依頼人の無理難題な要求に出来るだけ応えてきた。だから困っているものは狐だろうがなんだろうが放ってはおけなかった。これまで仕事で培ってきた滅私奉公の精神の賜物だったろう。
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