かがみよかがみ

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かがみよかがみ

「少しずれてるよ、ほら、結んであげる」 美奈子お姉ちゃんが私のセーラー服のリボンをさっと解き、手際よく結んだ。 左右対称でキレイな形。 「このリボンの結び方、私が考えたのよ」 8歳差のお姉ちゃんが懐かしそうにリボンに触れて、名残惜しい手つきでリボンの端をなぞった。 彼女の通った高校で、今日めでたく入学式がある。 私は今日、お姉ちゃんの通った高校に入学する。 * 「高槻先生」 声をかけると、前を歩いていた『高槻先生』が振り向いた。 「都ちゃん──じゃなくて、えっと安藤さん。どう? もう学校になれた?」 都ちゃん、でいいのに。 心の中で呟いてにこりと笑ってみせる。 「浩二くんがいるから、なれたよ」 「高槻先生って呼んでよ。名前禁止」 おどけた表情で私のおでこをつつくふりをして、浩二くんは──高槻先生は、名前呼びを封印した。 もう呼んではいけないらしい。 どこでも、もう。 「美奈子が言ってたよ。都ちゃん勉強すごく頑張ってるって」 お姉ちゃんの名前を口に出されると、胸がきゅっとなる。セーラーのリボンが強く結ばれる感覚。お姉ちゃんは頑張ってるって言ってくれるけど、進学校に入学してしまった以上、勉強するしかないのだ。だから勉強している。目標があるわけでもない。ただ勉強をしている。それだけ。 「浩二くんが先生だからね、頑張ってるの」 「そうなの?」 澄ましてこたえた私。 不思議そうに首を傾げて浩二くんは私からの名前呼びをさらっと肯定してしまう。 それだけで。 「浩二くん、今度補習してよ」 「必要ないでしょ?」 「じゃあ赤点とる」 「こら」 その言葉でその声で、その表情で。 私の幸せは満タンになる。 たとえ。 たとえ、そう。 浩二くんがお姉ちゃんの婚約者だとしても。 * お姉ちゃんと浩二くんが出会ったのがこの高校。 入学式に隣に座ったことが切っ掛けだったという。 ただ、同じ年に生まれたということ。 それだけで浩二くんの隣を占領できたお姉ちゃんが羨ましい。 顔なんてほとんどかわらない、同じような二重。鼻筋。唇の形。 高校生のころのお姉ちゃんは化粧もしなかったし、髪もひとつで結ぶ地味な見た目だった。 ぜったいに今の私のほうがキレイなのに。私は自分の髪を一房つまんで指に巻き付けた。 つるんつるんの輝く黒髪を見てほしい。 今の私が浩二くんと高校生の同い年で出会っていたら。 ぜったいにお姉ちゃんより私が勝つのに。 鏡を見ながらセーラーのリボンを解き、私は鏡の中の私を指さした。 「かがみよかがみ。私をお姉ちゃんにしてちょうだい。それで浩二くんを私にちょうだい」 ただそれだけを願う。 かがみにねがう。 私がお姉ちゃんに変身できるように。 * 「都、今日は補習なんだって」 お母さんがコーヒーをいれながらお姉ちゃんに言った。 土曜の朝食時。私にミルクの入ったコーヒーを差し出し、お姉ちゃんにはブラックを渡す。 お姉ちゃんはブラックコーヒーを一口含み、ふうん、と呟く。 「聞いてるよ、浩二くんが言ってた」 そりゃそうよね、と私は思いながらパンをかじる。 浩二くんはお姉ちゃんに言う。 もしかしたら、言わないでいてくれるかも秘密の補習時間かも、という期待をしたいけれどできない。 はっきりきっぱりと浩二くんは私との時間をただの補習だと見ているから。 「あらそう。じゃあいいのかしらね」 「何が?」 「都はずっと浩二くんのことが気に入っているから」 「お母さん、なんでそんなこと言うの!」 私はそこで会話を遮った。 言葉を慎重に選んでくれたとしてもそんなこと言われたくない。 隠していないけれど恋心を言葉にされるのは恥ずかしい。 食器を乱暴に置いて、ガタッと音をたてて席をたつ。 そのままリビングを離れた。 『──そんなことを言っても。浩二くんも補習だって言ってるし』 お姉ちゃんの穏やかな声が廊下まで聞こえてきた。 私は唇をかんだ。 わかってる。補習だもん。ただの、補習だもん。 わかっていることを何度も聞きたくもない。 その場で動けずにいると二人は別の話題を話し出した。 「そろそろ決めるの? もう8年になるでしょ? おつきあい」 「そうよ、はやいよね。もう少したったら決めるつもり」 何を? もちろんわかっている。 高校教師として母校に着任してもう2年目の浩二くん。 お姉ちゃんも地元の中小企業に就職して働いている。 8年は結婚を決めるのに十分な長さだった。 「もうすぐ挨拶にくると思うわ」 ああ、もうすぐなんだ。 私はお姉ちゃんに変身もできずにいるのに。 もうすぐ浩二くんはお姉ちゃんと本当に結婚してしまうのだ。 絶望的な気持ちになる。 私は両手で顔を覆った。 * 学校で『高槻先生』は静かに人気があった。 お姉ちゃんが聞いたら卒倒すると思う。 私は心の中で舌をだした。 浩二くん──高槻先生と、その横で3年生女子が、踊るようにウキウキした表情で歩いていたからだ。 その姿と廊下ですれ違う。 「オネエチャンニイウゾ」 すれ違うとき、口パクでそう伝えると浩二くんは苦笑した。 「いいですよ、べつに」 それは3年生女子への完全な拒否。 そして同時にお姉ちゃんとの確かな信頼関係を示していた。 すれ違って、二人は廊下を曲がって消えていく。 化学準備室がある方向。 いつも補習をしてもらっている部屋。 私は、二人に向かってべーっと大きく舌をだした。 補習を何度してもらっても私の中に入ってこない化学式のように。 私は浩二くんの中には入れてもらえない。 土曜に補習をお願いすることも。 化学準備室に入れてもらうことも。 特別のようで特別ではない。 今の3年女子と同じラインに並んでいるだけ。 『いいですよ』と言ってくれる言葉も全部。 お姉ちゃんの妹だから言ってもらえるだけ。 ──私はお姉ちゃんに変身できなかった。 * わたし、おねえちゃんだったらよかった。 まばゆいばかりの白いドレス。 今日お姉ちゃんが身につけるもうひとつのドレスが、サファイア色だと知っている。 白いドレスもサファイア色のそれも、私が身につけたかった。 私とお姉ちゃんは同じような顔。 なのに私は選んでもらえなくて。 今日は淡いピンクのワンピースを着る。 指輪はなくて、ネックレスは持っている。 お姉ちゃんが誕生日に浩二くんと一緒に選んでくれたネックレス。 優しいお姉ちゃん。穏やかで一途な婚約者。 みんなに好かれる学校の先生。私のものにはならない浩二くん。 かがみよかがみ。 わたしをお姉ちゃんに変身させてちょうだい。 何度も頼んだけれど願いは叶わなかった。 今日、二人は永遠の愛を誓う。 * お姉ちゃんになれなかった私。 浩二くんと同じ年に生まれなかったばっかりに。 ──でも知っている。 お姉ちゃんが浩二くんと付き合って、目標を持って勉強を頑張ったこと。 浩二くんと同じ大学に入るために、一緒に図書館に通っていたこと。 得意ではなかった勉強が得意になって、お姉ちゃんは自信をつけて。 そしてキレイになったこと。 なめらかな肌に薄い化粧。髪のウエーブが華やかな印象。けれど派手ではない。 そんなふうにそれこそさなぎが蝶になるように。 お姉ちゃん自身の努力でキレイな姿になったのだ。 浩二くんはお姉ちゃんを変えた。 お姉ちゃんの変身は浩二くんが切っ掛け。 だけど鏡に祈ったからではなくて。 お姉ちゃんが頑張った結果の変身。 浩二くんは高校生のころの『地味だったお姉ちゃん』のころからずっと一緒にいる。 変わっていくお姉ちゃんの手をとって一緒に歩いてきたのだから。 * じゃあ私も。 私はかがみを覗く。 でも、かがみにお願いはしない。 かがみにお願いしてお姉ちゃんになって浩二くんと同い年になったとしても。 私は選ばれることはない。 だからお願いなんてしない。 自分をかえるのは自分だけ。 お願いなんてしている間に私は私のできることをする。 私をかえられるのは私だけ。 もう一度。 私はかがみを覗く。 でももう、かがみにお願いはしない。
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