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チャプター2
道場のほうでは酒盛りがつづいていた。
立ち合いが終わり稽古が終わったあと、興が乗った師匠の言葉でそういう運びになったのだ。
他方、助之進は夜風に当たるために道場から出てきていた。火照った体を冷やしたくて、井戸で手拭いを冷やして拭いているのだ。
「勲武道場の麒麟児の面目躍如だな」
ふいに声をかけてくる者があった。
首を曲げると、建物の出入り口のほうから少年が近づいてくる。あばたが残るが、親しみやすい顔つきをした武士の子、馬場晴幸だ。助之進と同じく十四歳で、父は八丁堀同心をつとめていた。
「晴、麒麟児は止めてくれともうしているだろう」
「なにを今さら。立ち合いを命じられて辞退しなかったお前がよくいう」
助之進が顔をしかめるも、側らに立った晴幸はかえって面白がる。
「もう、助の男前ぶりにあたしゃ惚れちまいそう」
「おぬしそれでも武士の子か、恥というものを知らぬのか」
男に熱をあげる女子の真似をする朋友を前に助之進は半眼となった。
「ま、冷たいんだから」
とたん、晴幸は露わになったこちらの胸板を指先でなでる。
「よ、よせ」助之進は強烈な寒気を感じて思わず後退ったが、朋友のほうが動きが早かった。稽古では常に遅れを取るのだが、なぜこういうときだけ晴幸の動きは水際立つ。
「愛しております」半笑いの顔で抱きついてきた。稽古を積んでいるだけになかなか引き離せない。
「こら、止めなさい」しばらく揉みあっていると、手刀の鋭い一撃が晴幸の脳天を襲った。白く細い指先がそろった手だというのに、その動きは眼を見張るものだ。
瞬時に顔つきを悲愴なものに変えて晴幸は屈み込む。そして、念のために手刀を放った相手を振り仰いだ。
「あ、ごめんなさい。強すぎたかも」
彼の背後に立つのは、道場主の娘である志乃だ。黒々とした髪に、大きな瞳が印象的な娘だ。煮売り酒屋や茶屋で働いていればさぞ客を呼び込みそうな容貌だった。
「かもじゃない、大岩でも割れそうな一撃を人の頭(つむり)に見舞うな」
「反省の色がないから、もう一回」
早口で抗議する晴幸だが、志乃が手刀を再度くり出す挙動を見せたために小さく悲鳴をあげて退散する。
むろん本気ではなく、じゃれあいの延長だ。
また、志乃と助之進を二人きりにしてやろうという彼なりの気づかいでもある。
「今日の立ち合い、見事だったわ」
志乃がこちらを見やって興奮した声で告げた。
彼女の反応に助之進はやや苦笑に近い表情を浮かべる。豪傑肌の父に似て、志乃は女武辺と呼んでも差し支えない部分があった。もっとも、ここ最近は稽古を休んでいる。それが不思議といえば不思議ではあった。
すこし彼女が距離を詰める。両手を胸の前で期待するように組んでいた。
胸中を察し助之進はその手を己の手で左右から包み込んだ。志乃の手は同年代の娘のそれに比べると硬い感触をしているだろう。それでも、きめは細かく女性(にょしょう)としての柔らかさもそなえていた。それを意識して助之進はかすかに気恥ずかしくなる。
いつからということもなく二人は自然とこういう関係になった。
道場はおだやかな春の日なたみたいに居心地がいい。
志乃がいるだけでなく、賑やかな空気のなかにいるのが好きだった。
不満といえば、町人やその子が同じ道場で木剣をふるっていることだろうか。士道をかたくなに守る性質(たち)の助之進にしてみると、武士の誇りの象徴である刀、その使い方を士分にない者が習っていることは面白くなかった。ただ以前、そのことを晴幸に告げたところ、
「当世の侍のどこが町人より偉い。五〇石や一〇〇石の軽輩の士だと、銭金の相場にすればわずか五十両、百両の身の上だぞ。大店の番頭や手代だってもっと貰ってるだろ」
という言葉を返され、武士でもかように考えるのなら自分のような不満を持つのは少数派なのだろうと以降他言しなくなったが、それでもその思いは胸のうちで燻っていた。ただ、それを差し引いても道場に身を置いていると心が安らぐ。
道場(ここ)とは対照的な、脳裏に自分の家のことが浮かぶ。今、家で共に寝起きしているのは兄だけだ。父は隠密としての命をこなすこともある御小人目付の任で畿内へ赴いているという。今日の立ち合いの話を聞いて、父上はどのようにもうされるだろうか――。
ふと、そんな疑問が脳裏に浮かんだ。しかし、すぐに自分で打ち消す。いつも通り、そうか、と一言もうされるだけだろう――そんな予想を抱いたためだ。
「どうかした」志乃が少し気づかわしげにたずねる。なんでもない、彼女の思いがうれしくて助之進は口角をゆるめた。道場のほうからは相変わらず騒々しい。
文政十三年、十一代将軍家斉の治世の、初夏のことだった。
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