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チャプター97
四
「果し合い、まさか応じる気ではあるまいな」
宰領の堀口家の藩士、中年の男がやや虚勢が透けて見える表情でたずねた。
視線の先には手原虎繁がいる。宿の一室に刺客集が集い、虎繁以外の男たちも車座になって顔をそろえていた。驟雨のなか、死闘をくり広げた宿場の隣の宿場町、その旅籠でのことだ。
「俺は剣法者だ。挑まれた上で逃げることはできない」
虎繁は淡々とした表情で応じる。異論は受け付けない、その態度は雄弁に物語っていた。
「うぬ、浪人の立場で剣法者の矜持を語るなど片腹痛い」
そんな彼を、ななめ前に座る藩士にして忍びの男がせせら笑った。
高い忍びの技倆を備えようとも家中に重くもちいられるわけではない、その屈折が荒れた言動となってあらわれたのだ。
「子供が逃げるのを許したのはどこのどいつだ。『拙者の犬は鼠一匹見逃しはせぬ』などと大言壮語をした者がいたはずだが」
「なにを」
虎繁の皮肉に、忍びが声を震わせ殺気をまとう。その場に居合わせた者たちは、本身が眼前で抜き放たれるような錯覚をおぼえたはずだ。
「ほう、俺がまことの剣法者かどうか試す腹か」
「よかろう、試してやろうではないか」
誘いの口上に忍びは目を爛と光らせた。
「犬を連れて参らぬでよいのか」
「貴様ひとり、犬がおらずとも十分」
宰領の藩士が声を発し、「やめぬか」と仲裁を行おうとした瞬間には銀光が走っていた。
車座になったほかの者を傷つけることなく、虎繁の剣は狙いたがわず忍びの眼窩に突き刺さる。
信じられないという顔で彼は口を二度三度を開閉した。が、出てきたのは涎だけで結局、言葉を発することは叶わない。虎繁が剣尖を引き抜くと、痙攣しながら倒れしばらくすると忍びは動かなくなった。
「ほかに文句のある者はいるか」
虎繁は周囲を平然と見回す。そこにつどった八人の男たちは一様に目をそらした。
「よかろう、おぬしの果し合いは認める」
「誰が許しを乞うた」
宰領の藩士は、虎繁の言葉に目もとを引きつらせ激情をのぞかせる。が、なんとかこらえて言葉をつづけた。
「されど、こちらも無策というわけにはいかぬ。貴公が勝ちをおさめたところで、若に逃げられれば元も子もない」
つまり、と先をうながすせりふを虎繁が告げた。
「質にとったものを手札に、交渉をおこなう」「ならん」
虎繁の返答が信じられないように宰領の藩士は目を見張る。
「なぜだ」
「『脅しをかけられて動揺し、勝負に負けた』などといわれれば俺の恥となる」
もはや、会話の調子は主従が逆転したようすとなっていた。
「それに、高札のせいで耳目があつまっているなかで動けば役人に勘付かれるぞ」
付け加えられた言葉に宰領の藩士は懊悩する表情を浮かべる。
正家に逃げられては元も子もないが、捕まってしまえばどちらにしろ身の破滅であることに変わりはない。
「いたしかたない。されど、殺さずに捕えろよ」
彼の大きく譲歩した、というより従わされた言葉に対し虎繁は肩をそびやかすのみにとどめた。
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