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チャプター99
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九つ時(どき)のことだ(深夜十二時)。四日市にある宮へと渡る湊、一艘の小舟を漕ぐ龍四郎の姿があった。
実は、彼は生きている。家屋の爆破に巻き込まれたのを利用して死をよそおったのだ。これを敵に信じ込ませるためにわざわざ助之進は彼の火葬をおこなってみせた。これでよかったのか、という僧侶の問いかけは空の棺を燃やすという奇妙な行為への協力ゆえのものだったのだ。
忍びの久蔵から譲り受けた鉤縄を使って、苦労の末に沖に停泊していた藩船の船べりを乗り越えた。飯高藩の重役たちは藩船を人買い船に仕立て上げているのだ。こうすれば、捕り方の目をかい潜ることができる。結局、この件は表沙汰になることはないが、同じようなことを考える者はいるもので、文政十三年、日向の国飫肥藩は藩船二隻を使って抜け参りの子供を誘拐していた。幸い、こちらは逃亡した子供の証言で解決へと至る。ただし、露見しなかった場合も多かっただろう。
腕っ節は見事なのだが、やはり使いなれない道具をもちいるとすんなりはいかなかったのだ。それでも、久蔵の仲間の案内のお陰で短期間のうちに晴幸と志乃が囚われている場所へとたどりつけたのだから僥倖といえる。
船上が視界に認められたとたん、犬の姿が飛び込んできた。久蔵が苦労させられたという忍びにしたがう畜生だろう。まだ、視線は自分に向いていない。久蔵の忠告にしたがって、風向きを考えた上で侵入した成果だ。
次の瞬間、助之進は懐から竹筒を取り出し栓を抜くや投じる。
放物線にしたがって、中の液体が宙に舞った。緑色に黒みが加わったひどい色合いの液体だ。それが、犬の鼻先に落ちる。
刹那、畜生は痙攣するような動きを見せた。そう、あまりの臭いに気絶したのだ。尻から臭い液を出したカメムシを狭いところに閉じ込めると自身のにおいのせいでカメムシは気を失う。一方、閉所でなくとも犬はとほうもなく臭いに敏感だ、激臭のせいで意識をなくしても不思議ではなかった。
なにしろ、投げた当人である龍四郎ですら「う」と呻かざるをえないほどの悪臭だ。吐き気を我慢しながら身を躍らせ着地を決める。湊で話を聞きまわって、水夫(かこ)の大半が陸(おか)にあがって不在であることをつかんでいた。厄介者を片付けた今、最善の行動は晴幸と志乃を助け出してさっさとこの船からずからかることだ。
幸運とはこういうことだろう、と龍四郎はそんな思いを抱く。まずは、と忍び寄った船屋型の戸を細く開けたところ、室内の隅に小柄な人影がふたつ転がっているのが視界に入ったのだ。足音を抑えながらも龍四郎は彼らのもとに駆け寄る。
「晴幸、志乃」やはり、彼らだった。猿轡を噛まされ縄でしばられているが、目は開けており意識はある。どうやら体に異常もなさそうだった。
「今、自由にしてやる」
龍四郎は長脇差を取り出し手早くふたりの縄を切断する。縛めが解けるや、ふたりは猿轡を乱暴にむしりとった。
「こんなところまで済まない、龍四郎さん」
「ありがとうございます」
「なーに、袖振り合うももなんとやら、元はといえばあっしが加勢してもらった身でありやすから」
晴幸と志乃の言葉、龍四郎は爽やかな笑顔で首を左右にふる。
「まるで、もう助かったようなようすだな、あんたら」
突如、背後から彼らに嘲笑が浴びせられた。
振り返ると、やくざ者たちが出入り口をふさいでいた。出入りを思わせるような人数がその後に勢揃いしている。上荷(うわに)、下荷(したに)あたりに隠れていたのだろう、ということは湊に水夫がくり出したという話も敵に謀られたのだ。
「罠にかかる鼠がいねえか待っていたが、その甲斐があったってもんだな」
「鼠みてえな面して吼えるな三下」
龍四郎が間髪入れず発した言葉に、やくざの親玉らしいやや背の低い男が憤怒の表情を浮かべた。
「あっしは、兄弟を殺された憂さを晴らせる場が欲しくてしかたがなかったんだ。せいぜい、供養の手伝いをしてもらおうか」
「ほざけ」親玉の怒声にしたがい、手下たちが堂内になだれ込んでくる。
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