チャプター1

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チャプター1

   第一章    一  黒々とした雷雲の最中に身を置いている、そんな連想を抱かせる緊迫した空気が道場を支配していた。そんな雰囲気に耐えるようにして身を硬くして門下生が壁際に並んでいる。彼らの顔には不安、非難、敵意といった意思が宿っていた。  例外は、上座の剣術の師範だけだ。巌を思わせる顔つき、体つきをした彼は事の成り行きを楽しむかのごとき笑みを浮かべている。  彼らの視線の先、そう広くもない道場の中央では門下生である柏木助之進と、道場破りの巨漢の男が木剣を手に向かい合っていた。助之進の齢は十四歳、相手は年の頃三〇には達していそうでほぼ倍の年齢の開きがある。  まさかに立ち合わされるとは、という驚きが助之進の心から抜けきらずにいる。  道場破りが現れたとき、当然、年配の者が相手をするのだと門下生は誰もが思ったはずだ。  ところが、「お手合わせ願いたい」という言葉を耳にしたとたん、師の二宮太平次の視線が向かったのは助之進だった。「助、お前が立ち合え」と今浮かんでいるのと変わらない表情で告げたのだ。  むろん、道場破りの男も血相を変えた。だが、 「当道場の敷居を跨いだのだ、むろん、道場のやり方にしたがってもらう」  と気魄を込めた一言を太平次が機先を制して放ったことで相手は黙らざるを得なくなる。  そして、師がどこか挑みかけるような眼を自分に向けたことで助之進も肚が決まった。師匠がわざわざ命じたのだ、己の業前を認めてくれてのことだ、という思いもあり、また自分の腕のほどを実戦に近い形で知りたいという考えもあった。 「摩利顕現流、大蔵彦三郎」  道場破りの名乗りに、助之進の眉がかすかに動く。  聞いたことがない流儀だが問題はそこではない。摩利とは摩利支天のことをさしているのだろう、それを顕現とは思い切った名をつけたものだ。もっとも、 「天真正伝香取神道流、柏木助之進」  助之進の流儀も前半が神の名になっているから、その点は人のことはいえないが。  今は名を気にするときではない――助之進は脈が自然と速まるのを感じながらみずからにいい聞かせる。  一歩間違えれば命を落とす。また、そうでなくとも敵の一撃を受ければ不具となることはおおいにあり得た。  竹刀をもちいる流儀も多いがここの道場は事情を異にする。普段通りでいいかと相手に求めたところ、二つ返事で承諾した。増上漫であれば問題はないが、自信に見合う業前を持っていれば助之進の勝利は危うい。  だが、夜の闇が景色の輪郭を失わせるように、諸々の事柄が脳裏から消えていく。  集中が“勝つ”という眼目以外を意識から排除しているのだ。周囲の音がまったく聞こえなくなる。  相手は青眼、助之進は下段に木剣をとった。  対峙は長くつづかない。小童ごときすぐに片付けてやる、その念が道場破りの顔には浮かんでいた。  面を狙って鋭く斬り込んでくる。  早――助之進は体を開き、敵の木剣の切っ先を突き込んでいた。  一撃が空を切る。強引に相手が半身になって躱したのだ。刹那、獲物を狙う燕のごとく木剣の剣尖が跳ね上がる。  慌てず助之進は片足を引いて躱した。電光の速度の打突。彼のくり出した得物が小手をとらえていた。硬い感触と凄絶な音がほぼ一瞬で助之進につたわってきた、その事実に背筋が硬くなる。  やってしまった、そんな思いを抱いた。  江戸の初期と違い、以降となると武士にも血腥いことを忌避する感情、習慣が生まれている。助之進もそのご多分に漏れず、あくまで寸止めで済ませて相手を五体満足で帰らせるつもりだったのだ。しかし、ほぼ無意識の行動の結果、道場破りの手首を砕いてしまった。  集中の末に恐怖や怯懦を打ち消しても、やはり冷静ではいられなかった。  まだまだ未熟、そのことを助之進は思い知らされる。  彼が口を開き声をかけようとした瞬間、濁った眼が向けられた。宿る感情は憤怒と憎悪。道場破りは、今すぐにも殺してやると総身に殺気を漲らせる。  とたん、「破」と太平次の気合の声がとどろいた。床、天井を、壁を、大気を空気のふるえが激しく襲う。 「貴公が痛手を負ったはみずからの未熟さゆえ」  一拍の間のあとに発された言葉に、その場に人間の視線がすべて師にあつまった。大半が呆然とした顔で、残りの者の目には同意の意思が浮かんでいる。  唯一、道場破りの目には隠し切れない不満がのぞいていた。 「それとも、手首が砕けておるというのに、弟子の腕をはるかに上回るわしとやるか。始末なら気にするな、汐入いたす堀でも投げ込めば町方も詮議したりはせぬからな」  暗に、殺して堀に捨てるぞ、と道場破りの殺気が霞むほどの剣気を発散していい放った。突如として辺り一帯を焼き尽くすような業火が燃え上がった、そんな幻視をおぼえるほどの圧倒的な気配だ。  対象ではない助之進すら息を呑む。ましてや、真っ向から叩きつけられた道場破りはもはや顔面蒼白だ。 『道場は小体なれど、勲武道場には鬼が棲む』  巷の一部でいわれている言葉を彼は痛感しただろう。挨拶も早々に道場破りは逃げるようにして姿を消した。
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