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チャプター3
※ ※ ※
例の野球部員の怪我で学校は大騒ぎとなったが公彦は何食わぬ顔で下校して帰宅を果たした。片道十キロを自転車漕いでいるがそれほど負担でもない。
しかしそれを一時期、彼は中断していた。学校を休み続けていたのだ。
「金がもったいないから。地元の国立か、それが無理なら公立に行け」
母親とリビングで電話帳ほどの厚さのある全国の大学の情報を網羅した本を見て進路について語り合っていた会話をさえぎって、怒鳴り声に近い声音を父が出した。その瞬間、公彦はオセロの勝負で鮮やかに負けを喰らったかのように頭が真っ白になる。他方で、溶鉱炉を身の内に抱え込んだような熱を感じた。
その後、公彦はいわゆる燃え尽き症候群と思われる症状に襲われた。
私立に行くと負担がかかるから、とランクを落として志望していた高校を諦め、それでも大学進学に希望を託し、早稲田あたりにいけるように毎日午前三時、三時半ぐらいまで起きて勉強をして午前六時五十分より前に起きて片道十キロを自転車で通学する日々を数カ月つづけてきた上での先の発言は、公彦から努力する動機を完全に奪い去った。
そもそも東京の大学に行きたかったのは、こんなゲスな夫婦といい加減縁を切りたかったのが最大の動機なのだ。決して大企業に就職した、安定した暮らしを手に入れたいと思った訳ではない。
大体、高校ぐらいは公立に行ってくれが父親の口癖だったから、それは逆にいえば大学は私立でもいいという無言のメッセージだと思っていた。
それがよりによって『もったいない』だ。
さらに追い打ちとなったのは、自分の息子の将来に対し金を惜しむことへ怒り狂っている息子に向けて母親が後日、
「地元の国立大に行かなくてもいいから、法政大学でいいから」
と発したせりふだ。理由を質すと、「学費が他の難関私立よりも安いから」と悪気などみじんもない表情で母親は言い放った。むしろ、わたしは子どもを気づかう良い母親という治部がその表情、声から透けていた。元々、顔のつくりは下の下のブスだが、今日はこれまでで最大の醜さを発揮していた。見ているだけで吐き気がこみ上げてくる。
根本的には夫婦そろって同じことを息子に告げたのだ。
子どもの未来への投資をケチった。何の迷いも、躊躇いも、躊躇もなく。
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