チャプター3

2/2
前へ
/126ページ
次へ
 その後、夏休みが明けると同時に公彦はふたたび高校に通うようになったが、もはや以前の熱は失われていた。母方の祖父や祖父の叔父、従兄、甥のように大学教授を目指すという目標も色褪せてどこかへと消えてしまっている。 親と言い争ってエネルギーを浪費するのを避けるために学校に通っているが、授業など聞いておらずむろん予習復習も怠っているため次の定期テストは壊滅的な結果となるだろう。不登校空けのテストはともかく、今回は怒り狂うのが目に見えていた。それを機会にふたりを拷問の末に地獄に送ってやるというのも有りだ。 「お帰りなさい」と母親がいうが、公彦は相手を見もせずに脇を通り過ぎて二階の自室へ向かった。 「いい加減にしなさい」  刹那、彼の肩に母の手がのびる。精神年齢が低い、両親はそんな人間だ。息子よりはるかに。とにかく自分の思い通りにならなければ感情をたやすく乱す、両親はそんな限りなく幼稚な人間だ。そんなふたりの夫婦生活、子育てはママゴトに過ぎない。  母の声に応じて、公彦は無言で母親に視線を送った。進路の件だけではない、これまで“色々”と積み重ねてきたものが両親に対する凶暴な感情を身のうちに宿らせていた。  そんな息子の胸のうちが瞳に映っていたのか母親は言葉を失って固まった。目尻の皺が目立って余人に劣る容姿が際立つことになった。公彦は何事もなかったように母に背を向けて自室に今度こそ向かう。今、母が黙るのがゼロコンマ一秒でも遅ければ殺していたかもしれない。別にそれが実現しなくてよかったとも、逆に残念だとも思わない。機会はいくらでもある。精々、残り少ない人生を楽しむことだ。  それから数時間後、新書を読んで時間を過ごしていた公彦は喉の渇きをおぼえて部屋を出た。すでに父親が帰宅しており顔を合わせるのは鬱陶しいが、クズのために自分が苦痛をおぼえるのもバカらしい話だ。  一応は客間として設けられた和室から物音が聞こえる。おそらく、母親が電子ピアノを弾いているのだ。ヘッドフォンの端子を差し込めば近所の不満を買わずに演奏ができるもので父親には伏せられているが相当の金額だったらしい。 弾き心地を求めた結果、鍵盤が薄っぺらい商品を選択肢から外し最終的に高級品を選んだのだ。息子の学費は惜しむ癖に。随分と優雅なことだ。顔にまったく似合わない趣味だ。  リビングに入る。が、父の姿は視界に入らなかった、風呂に入っているようだ。  部屋の隅には父親専用の木製の仕事机が置かれている。その上に、いつものように財布と車のキーが無防備に置かれているのが視界に入る。  財布の中に入っている金の使い道の大きなもののひとつは風俗だ。当人に確かめた訳ではないが、母とそのことを巡って喧嘩をしており怒り任せにその事実をほぼ認める発言にかつて及んでいた。  さらにはゴルフや打ちっぱなしに行くこともまた大きな出費となっている。  息子の学費は惜しんだ癖に。そんな人間の分際で、テレビの特番の難病患者に密着したドキュメンタリーを観るとお約束のようにたとえどんなことがあっても金をかき集めて助けてみせると散々今までほざいてきたのだが開いて口がふさがらない。オナニーがしたいなら人の見ていないものでしてほしいものだ。 しかも、同じ口で「お前がいうことを聞かないなら捨てる」という言葉を耳にタコができるまで聞かされてもいる。  いや、むしろ自分の娯楽費を削ることを厭ったからこそあの男は息子に地元の国公立の受験を命じたのだ。  ふと脳裏にひらめくものがあった。公彦は口もとに歪んだ笑みが浮かぶのを自覚しながら、早足に仕事机に歩み寄る。そういえば勝手に触って思い切り殴られたことがあるな、と当時の記憶がよぎる。両親との思いでなどそんなものばかりだ。  そして父親の財布を手にし、中をあらためた。  あった――顔をしかめて、風俗嬢の名刺らしきものを取り出した。  家族も憲法九条も共同幻想だ。どんな家族だって心の奥底には愛情があるなど吐き気のする虚言でしかなく、日本が戦後、戦争をせずに済んだのは国際情勢の生んだ偶然に過ぎない。戦争は仕掛けるだけでなく、仕掛けられて始まるというバカでもわかりそうな現実があるのだから、九条のお陰で日本が平和だというのは幻想以外のなんだというのだ。  利己しかない人間がいる限り愛情を欠く家庭が築かれ、戦争にある日巻き込まれることもある、それはいつだって人間の真理だ。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加