チャプター1

1/2
前へ
/126ページ
次へ

チャプター1

   第一章    1  泰平(たいへい)二十六年、西暦20XX年。 「お前、ちょっと顔がいからって調子乗るなよ」  野球部所属のデブで身長のあるゴリラ顔のアホがバカ丸出しのせりふを盛大に吐いた。なぜ、そんなしょうもないことを口にできるのか正直理解に苦しむ。豚舎がお似合いの男子高校生と比べれば大半の生徒はましに見えるのは自明の理だろうに。  与しやすい、ストレス発散の相手に調度いいなんていうふうに目をつけられたんだろうな――。 息が吐き切られた、その瞬間に公彦は動く。脱力していたために何の兆候も見せずに迅影と化したその身は、佇立から前傾姿勢となり一歩踏み出して体重の乗った拳をくり出している。蒼白になってデブがうずくまる。容赦なく顔面にひざを叩き込んだ。下からすくい上げるような一撃が脳震盪を誘った。後ろに倒れ込もうとするのを、公彦は面倒かけるな、と口もとを歪めて相手の襟をつかんだ。相手が罵声を浴びせてきてからここまで一瞬のうちの出来事だった。  だが、本当の相手にとっての不幸は、ここからだ。前菜を食べただけで満腹になられては喧嘩を買った甲斐がないというものだ。  徐々に腕から力を抜いて相手を仰向けの姿勢にし床に落とした公彦はまず、デブの左手を踏みつけた。浮身から沈身への重心の変化、総身の筋力の活用、人間の発揮しうる力のすべてを一瞬にして引き出した。餅つきの杵でも振り下ろしたような衝撃が相手の手のひらを襲った。  野球部員のデブは悲鳴をあげるが、彼がこちらをリンチにでもかけるつもりだったのか呼び出した場所が視聴覚室だったことが仇となりに音は外に漏れない。しかも、代々の野球部員が悪用してきたのか相手が鍵を持っていたのが不幸だった。勝手には入れないはずの部屋は、いま鍵が内側からかけられ一般の生徒が入ってくる心配はない。  昼休みの喧噪もこの空間には届いてこなかった。窓の外の山を切り崩してへばり付く住宅街や校庭の一部の景色すらも作り物じみて見える。照明に照らされた精巧に作られたジオラマ、そんなものが脳裏に浮かんだ。 密室の中の静けさの完成を野球部員の乱れた呼吸が邪魔していた。最初から最後までうるさい奴だ――。 「お、おまえ、こんなことして」  デブの発言は途中で途切れた。正確には弱々しい悲鳴に変わったのだ。公彦が容赦なく脇腹に蹴りを浴びせたためだった、一番下の骨は脆弱にできており簡単に折れる。その感触を公彦は足の裏に感じ、すこし小気味よさをおぼえた。割れ物などの梱包に使われる緩衝材の半球を潰したときの快感に似た感触をおぼえた。 「豚。自分から喧嘩売っておいて、いざとなったら他人の存在を持ち出すな」  公彦は怒りと冷めた感情の入り混じった吐息とともにその言葉を告げる。が、脇腹を押さえて悶えるデブにこちらの話を聞いている様子はない。  人の話を聞けよ、そんな意味を込めて今度は脛を蹴り折る。またも悲鳴があがった。デブは顔に真っ赤にして目に涙をためている。自己憐憫が許されると未だに思っているらしい、まってくもって醜い。そして無様だ。甘ったれるのもたいがいにしてほしいものだ。  刹那、唐突に脳裏に幼い頃のみずからが似たような状況に置かれた光景がよぎり、公彦は総身を激しく震わせた。熱病にうかされたかのごとき感覚が怒りを大きさを表現する。  目の前にいるのは“敵”というラベルで認識された生物で、相手が人間だ、同じ学校の生徒だ、そんな情報は脳内から消え去った。ならば、人として扱う必要はない。  念入りに相手の左右の手を踏み砕いた。これで一生、野球はまともにできないだろう。元々、プロになれるような人間ではないが、それでも自分が青春を捧げたものを文字通り粉砕されたことは心に痛手を与えるだろう。もっとも、今は激痛のあまりそんなことを考える余裕などありそうにないが。 「け、警察に届けるからな」「どうやって」  乱れた呼吸のもと、なんとかデブはそんな言葉を吐いた。即座に公彦はたずねる。相手の愚かさに、怒りの噴出が急激に勢いを弱めた。胸に残るのはくだらない奴を相手に時間を潰してしまったという件体感だ、こんなことなら図書室で本でも読んでいるべきだった。知的好奇心を満たすのはいい、どんな将来像すら想像できない身になっても知識欲は不思議なことに失われなかった。  とたん、相手は虚を衝かれた表情を浮かべた。
/126ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加