第一章(1)

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第一章(1)

 ――いついかなる困難や災いがふりかかろうとも互いに助け合い、喜びを得た時は分かち合い、生涯を通して真心を尽くすと誓います……。  ナタリアは自分の部屋の窓辺で頬杖をつきながら、結婚の誓いの言葉を呟く。  レースのカーテンが、春風をうけとめて膨らむ。  柔らかな午後の日射しが部屋に降り注いでいる。  美しい濡れ羽色の髪は腰まで届くほどに長く伸び、あどけなかった顔立ちはすっかり成熟し、愛らしさの中に美しさを兼ね備える。そしてその体もまた、すっかり大人の女性らしいしなやかさを帯びている。 「奥様、お茶が入りました」  物思いに耽っていたナタリアは振り返った。  侍女のシャティがティーセットをテーブルに並べていた。 「ありがとう」  ナタリアは控え目な微笑みを口元に浮かべると、温かな湯気をたちのぼらせる紅茶で唇を湿らせ、マカロンを食べる。  結婚式からおよそ十年が経つ。  あらゆるものを凍てつかせる長かった冬を終え、再び新緑の季節を迎えようとしている。  窓の向こうでは、ヒヨドリのつがいがピーピーと仲良く鳴いて、じゃれあいながら一緒に飛び回っていた。  ――見せつけられているみたい。 「奥様、縫い物の進みはいかがですか?」 「うーん、まあまあかな。こういう感じ」  ナタリアは膝においていたハンカチを見せる。 「あぁ、とてもお上手ですよ! きっと公爵様はお喜びになられます!」 「……だったら良いんだけど」  ハンカチに縫い付けているのはオオルリの図柄。  以前、バルコニーに留まっていたオオルリをスケッチしたものを参考にしたのだ。  絵は子どもの頃からの趣味だった。  家族でどこか知らない場所にでかけた時、雨上がりの綺麗な虹を見た時、いつだってナタリアはスケッチブックに記録した。両親が「うまいね」「綺麗だ」と褒めてくれるのがとても嬉しかったから。  しかしスケッチと裁縫は同じ指を使うのでもぜんぜん違う。  数週間前から悪戦苦闘しつつ、分かったのは、ナタリアには裁縫の才能がないということ。それでも失敗を繰り返す執念が実ったかはどうかは分からないが、想像した完成図からは数段落ちてはいるものの、それでも恥ずかしくない出来映えだと自負できた。 「そういえば旦那様が明日の夜、お戻りになられそうです」 「本当に?」 「はい。さきほど早馬が到着を……」 「なら間に合いそうね。今回の出征、どれくらいの期間だったか覚えてる?」  シャティは指折り数える。 「およそ、半年でございます」 「……今回も長かったわね。でも、前は一年戻らなかったこともあったくらいだから、そう考えれば短い、とも言えるのかしら」  帝国は今、領土を接する王国との領土紛争が頻繁に発生していた。  皇帝はそのたび、クラウスに対して出陣命令を出した。  だが、ナタリアの中で今度の出征は特別だった。  今度の出征が終わり、クラウスが戻って来たら。  それをずっと考えながらこうして、ハンカチへの刺繡をしていたのだ。 「明日の夕食は特別なものにしたいわ」 「今、準備に取りかかっております」  シャティから出征から帰る夫のための晩餐のメニューを受け取る。  目を通し、「これでいいわ」とメニューを返す。  結婚して何度目の出征だろう。  十回から先は、悲しくなって考えるのをやめてしまった。  八歳で結婚してからというものの、ナタリアはクラウスの甲冑姿しかまともに見たことがないかもしれない。  ただ夫の活躍は耳に入ってくる。  大衆紙にも『王国との国境紛争で帝国に勝利を与えた偉大なる公爵』と一面で熱烈に報じられたりもしていた。  社交界にでかければ、 『さすがは公爵様。先の戦いで敵国の軍をたったお一人で倒されたそうですわ』 『あのような御方と結婚できるなんて、夫人は幸せものですわねえ』  そんなクラウスの活躍に歓声を上げる女性たちの声も聞こえた。  人づてに聞く、夫の活躍はナタリアからすればここではない、どこか遠い異国の話のようで全く現実感が湧かない。  夫がどれほどの戦功をあげようとも、ナタリアの心には虚しさしかない。  出征に関する情報は身内にも秘密にしなければいけないという関係上、手紙をしたためることもできなかった。  結婚して十年。  ナタリアがクラウスについて知っていることはあまりに少なかった。  ナタリアよりクラウスを慕う人々のほうが、よほど詳しいだろうと確信を持って言える。  本来であればそれを恥じるべきなのだろう。いや、恥じてはいた。  しかしそんな感情さえ、遙か昔のことのよう。  今も目を閉じると、クラウスとまともに言葉を交わした時のことをまざまざと思いだすことができる。  結婚式の日には個人的な会話などすることもできなかった。  窮屈な儀式に疲れ果てたナタリアは大聖堂での式を終えると、馬車に揺られて伯爵邸へ戻ったからだ。  だからクラウスとまともに会話を交わしたのは、結婚式を終えた二ヶ月後――公爵領へ向かった時のこと。  公爵領は帝都のある南部の穀倉地帯と、北方の高山地帯のちょうど中間地点に存在している。  都を離れておよそ二週間の旅路。  ナタリアにとってそこは見知らぬ土地。  伯爵家で仕えてくれていた乳母たちの同行は許されなかった。  公爵家に嫁ぐのであれば、公爵家の流儀に染まる必要がある。乳母などつれていけばいつまでも公爵家になれようとは思わないだろう、とナタリアの父が気を遣ったせいだ。  ナタリアからしたら、見ず知らずの世界へ突然たった一人で放り出されるような気分だった。  結婚という言葉の意味は両親や周りの人たちから教えられて頭では分かっていても、そこまでしっかり理解はしていなかった。  頭にあるのは仲睦まじい両親の姿。  あんな風に、大聖堂で見たあの人と仲良くなるんだと考えていた。  公爵家の城に到着すると、馬車の扉が開かれた。  八歳の妻のために扉を開けたのは、クラウスだった。  彼は結婚式で見た時と同じくらい大きく、同じくらい冷たい表情をしていた。  そして、ナタリアに向かって手を差し出す。  馬車から降りる時に手を差し出された時には、にこりと微笑んでその手を取り、「ありがとう」と伝えるのがマナーであると習ってはいた。  しかしじっと見つめるクラウスの視線に、ナタリアは指先一本動かせなかった。  クラウスの体の大きさが怖い。赤い目に体が震えてしまう。  急に心細さが幼心を満たし、決壊した。 『いやああああ! おうちに帰るうぅぅぅぅぅぅぅ!!」  ナタリアはその場で泣き出した。貴族の令嬢と言っても、子どもだ。  自分の感情を我慢するだけの辛抱強さなど持ち合わせていない。 『ナタリア、いいかい? 新しいおうちについたら困らせてはいけないよ。お前は立派なレディだ。そして、夫を支える妻なんだからね』  父の言葉は覚えていたけれど、それをしっかりやるにはナタリアは幼すぎた。  公爵家の使用人たちがどれほど慰めようとも、うまくいかなかった。  泣き止んだ時には、彼の姿はどこにもいなかった。  それからナタリアは自分の部屋に引きこもり、ベッドでしばらく過ごした。  ナタリアが部屋を出たのは、どれほど泣こうがわめこうが、家にはもう帰れないんだと幼いなりに理解した時だった。  その時にはもう屋敷のどこにもクラウスはいなかった。  彼は皇帝の命を受け、再び戦地へ旅立ってしまった後だったのだ。
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