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第三章(3)
「帝国をあまねく照らす太陽である皇帝陛下、皇后陛下。臣クラウス、参上いたしました」
クラウスはうやうやしく頭を下げた。
皇帝夫妻は今、玉座にて一通りの謁見を終えたらしく、仲睦まじく歓談をしていたところだった。
「おお、クラウス。どうだ、宴は楽しめているか?」
「はい」
「今、お前の細君の美しさを、皇后と共に話していたところだ。それにしてもお前たちのダンスに会場の者たちは目が釘付けになっていたぞ。気付いていたか?」
「いいえ。妻しか見ておりませんでしたのに」
「ハハ。お前がそうまでのろけようとはなぁ」
「やはり結婚は人を変えるようですね。ナタリアの装いもとても美しくて……。ホホホ。私まで誇らしい気持ちで一杯です」
クラウスはうっすらと笑みを浮かべて話を聞きながら、要領を得ない会話に内心の苛立ちを隠すのが大変だった。
――何をのんびりと。さっさと本題に入ってくれ。
どれほどこの国に放蕩貴族が多いかは嫌というほど痛感している。
ナタリアがクラウスの妻であることを知っても、構わずに言い寄るやつがいないとも限らない。
クラウスは不敬を承知で、軽い咳払いをする。
「陛下、私にご用と窺ったのですが」
皇帝は皇后を見る。
「ん? 用? 私ではないが……。お前、クラウスに何か用向きがあるのか?」
「いいえ」
「……どういうことだ?」
ここまで連れて来た使用人を思わず、睨んでしまう。
「ボーウィン伯爵様が陛下が公爵様に用事があるから、と仰られまして……」
使用人はしどろもどろになる。
「ボーウィンが? いや、私は何も言っていないぞ」
「何か行き違いがあったようです。御前を失礼いたします」
これは明らかに何かしらの悪意ある企みだ。
だがどうして兄であるジャックが、クラウスを騙してナタリアから遠ざける必要あるのかが理解できなかった。
話がある。そう言えば済むことだ。
――そういえば皇宮でジャックと話した後、ナタリアの様子がおかしかった……。
あの時は二人の間には見えない壁があり、詳しく聞けなかったが、あれは尋常ではない。
なにせ、あのあとナタリアは数日、寝込んだのだ。
焦燥感に自然と早歩きになる。
馬鹿みたいに談笑する貴族たちを威圧して脇へどかし、ナタリアが待っているであろう場所に向かうが、その姿はどこにもなかった。
――ナタリア!
※
月が雲に隠れ、庭は薄暗い闇の中に沈んでいる。
足下をしっかり見ていないとつまづきそう。
「このあたりで良いだろう」
「お兄様。ご用件とは……」
暗がりはやっぱり馴れず、さっきから何度もドレスで手の汗をぬぐわなければいけなかった。
「お前がもっと伯爵家のために尽くせる方法を見つけた」
「お兄様、何を仰って……。私は確かに伯爵家の人間ですが、今はもう旦那様の……公爵家の人間で」
「違う。お前は昔も今も伯爵家、いや、俺の駒だ」
ジャックは事も無げに言い切った。
駒、それはもはや肉親ですらない。ただの人形なのだとジャックは言い切ったのだ。
ナタリアは後退るが、クラウスに右腕を掴まれ、乱暴に引っ張られる。指が腕に食い込む痛みで顔をしかめてしまう。
「お兄様、て、手を離して下さい……っ」
どれほど踏ん張っても、兄の力には抗えない。
「ブリンダス男爵家を知っているか?」
「……いいえ」
「最近、皇室への多額の献金が評価され、一代限りの男爵位を与えられた。銀行家で多くの資産を保有している。公爵とは離縁し、そこの当主に嫁げ」
「しょ、正気ですか。クラウス様との結婚は皇后陛下がお決めになられたのですよ!?」
「適当な理由をでっちあげればいいだろう。あいつが怖ろしいとか、指一本触れてくれないとか。理由はなんでも良い。お前は男爵家に嫁げ。相手は五十代の男だが、構わないだろう。子をなせれば万々歳だ」
身勝手すぎる要求に、全身から血の気が引く。
――狂ってる……。
「嫌です!」
「嫌? 勘違いするな。お前に選択肢なんてない。これは頼んでいるんじゃない。命令してるんだっ。さっきからお前の目は泳ぎっぱなしだ。どうやらまだ、苦手なようだな。暗闇が」
ジャックはニヤッといやらしい笑みを浮かべたかと思うと、手を引いて暗がりへと引きずり込もうとしてくる。
「いいか、お前は俺に大人しくしたがっていれば良いんだ!」
「や、やめてください、お兄様ぁ!」
――旦那様……!
恐怖に抗い切れず、ナタリアが目を閉じた瞬間。
呻き声が聞こえると同時に、ナタリアの腕を掴んでいた力が消えた。
「ナタリア、無事か!」
恐る恐る目を開けると、クラウスがいた。
そして一陣の風が吹くと空に垂れ込めていた厚い雲が流れ、月明かりが庭を照らし出す。
足下に、ジャックが倒れていた。
その顔には明らかに殴られた痕があり、鼻血が流れていた。
ジャックは倒れたまま、頭を守るようにガクガクと震える。
顔を青ざめさせ、まるで小動物のよう。
「義兄上。私は妻を愛しています。妻に手を出そうという者は、たとえ誰であろうと容赦をするつもりはない。あなたでも、だ」
言葉こそ丁寧だが、クラウスの鮮血のように赤い瞳には殺意があった。
クラウスは膝をつき、ジャックに何かを話したが、兄から離れているナタリアには何を話しているのかは聞こえなかった。
「行こう」
「あ、あの……兄に何と仰っていたのですか?」
「なんでもない。気にするな」
クラウスは不意にナタリアの首と太ももの裏に腕をすべりこませると、抱き上げた。
「!? だ、旦那様、下ろしてください。一人で歩けますから……」
「駄目だ」
なぜかクラウスは頑なで、ナタリアには構わず歩き出す。
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