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第一章(3)
公爵が戦地よりお戻りになられる。
帰還予定の朝。ナタリアは薔薇の精油を垂らした風呂に入って体を丹念に磨き上げ、普段はほとんどしない化粧も念入りにほどこす。
ドレスや装飾品も一番のお気に入りを身につけ、まるで初恋を経験したばかりの乙女のように、自らを飾り立てた。
「奥様、とても美しいです」
「ありがとう、シャティ」
「きっと公爵様も奥様を一目見た瞬間、他のなにも目に入らなくなること請け合いでございます!」
「……そうだったら嬉しいわ」
気心の知れた侍女に褒められ、頬を染める鏡の中の自分を見つめる。
浮かれているのは何もナタリアだけではない。
屋敷の使用人の中にも公爵と共に出征した兵士を夫や恋人に持つ者が多くいた。
普段は使用人たちに厳粛さを求める侍従長のハンスも今日ばかりは、どのように浮かれようとも口うるさいことは言わないようにしているようだった。
そして日が落ちてまもなく、先触れの兵士がクラウスたちの帰還を知らせる。
使用人たち以下、屋敷に仕えるものを従え、ナタリアは城の前庭で出迎えた。
ナタリアは篝火を受けてより一層深い輝きを浮かべた、夫の赤い瞳を見つめる。
が、夫の目にナタリアは映らない。いつものこと。彼は結婚してからというものの、まともに目を合わせてはくれない。いつもはそれだけで怯み、俯くが、今日はしっかりと前を向きつづけた。
クラウスは馬から下りると、従者に馬を預ける。
「おかえりなさいませ、クラウス様」
「ああ」
――ああって……それだけ!?
半年ぶりなのだ。もっと他に何か言ってくれても良いんじゃないか。
ナタリアは怯みそうになる自分を叱咤し、城内へ入っていくクラウスの後をついていく。
――冷静に。きっと、クラウス様も長きに当たる出征でお疲れになっているのよ。不躾な物言いになってしまうのは責められないわ。
「クラウス様、長期にわたる御出征、ご苦労様でございます。今度も帝国が大勝利であるとお聞きいたしました。おめでとうございます」
「ああ」
「……か、甲冑を脱ぐのをお手伝いさせてください」
「必要ない。だいたい甲冑など触れたこともないだろう」
「でしたらこの機会に覚えます。私はあなたの妻です。これからも出征の機会はあるでしょうから……」
ナタリアが戦塵で汚れた甲冑に手を伸ばす
「やめろ」
クラウスはその手を避け、歩みを早めた。まるでナタリアから逃げ去るかのように。
ナタリアは胸で何かが支えるような苦しさを覚えてしまう。
普段ならこうまでしようとは思わないだろう。
しかし今日はここで引き下がらない。そう決めたのだ。
「何でも構いません。なにかお手伝いできることはございませんか? 新しい服を用意したり、留守の間のご報告などをさせてください」
ナタリアは必死に食い下がろうとするが、夫からの返答はあまりに寒々しかった。
「すべてハンスがやれることだ」
「きょ、今日の晩餐はご帰還されるクラウス様のために特別メニューとなっておりますので、ご一緒に……」
「いつ報告が終わるから分からないから、先に食べていろ」
「いえ、お支度がととのうまで待っています……」
クラウスは立ち止まり、背筋の凍り付くような眼差しを向けてくる。
「しつこい。必要ない」
ナタリアは、使用人たちの憐れむような眼差しを背中で感じ、こみあげてくるものに下唇を噛みしめた。
「……お、奥様」
侍女長のアンヌが恐る恐る声をかけてくる。
ナタリアはせいいっぱいの笑顔を浮かべながら、振り返る。
「クラウス様もああ仰っているんだし、冷めないうちに頂くわ!」
その空元気が自分でも痛々しいことは自覚していた。
――だったらどうすれば良い? 声を荒げて部屋にでも引きこもる? それで、クラウス様のお気持ちが変わるんだったらいくらでもするわ……。
しかしきっとナタリアが何をしても、彼は眉ひとつ動かさないだろう。夫のことは知らないことのほうが多いナタリアだったが、それだけは確信をもって言えた。
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