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第一章(4)
クラウスは半年ぶりに目の当たりにする妻の美しさに、体が熱くなるのを実感した。
戦陣にあって、ナタリアのことを考えない日はなかった。
この手に彼女を抱きしめることができたらどれほど幸せだろう。
あの豊かな黒髪に顔を埋め、愛を囁くことができたら。
――叶わぬ夢だな。
邪な考えを追い出すように頭を振った。
考えれば、無意識のうちに実行してしまうかもしれない。
そうしたらまた、ナタリアは怖れの目でクラウスを見るだろう。
軍神と世間で言うが、クラウスは自分のことを臆病だと結婚してから痛感した。
妻からの拒絶と忌避の眼差しに耐えられないのだ。
――それにしても、今日のナタリアはやたらとついてきたな……。
甲冑を脱ぐのを手伝うなんて言われたのは初めてだ。『あなたの妻です』という言葉にさすがに揺れ動いた。しかしあれがナタリアの本心でないのは分かる。
――きっとハンスかアンヌが俺が帰ってくるんだからと適当なことを吹き込んだのだろう。余計なことを。
部屋に入ると、侍従長のハンスが甲冑を脱がしてくれる。
ハンスはいつものごとく黙々と仕事に励むが、その眼差しにどこか、クラウスを責めるような感情があることに気付く。
「何か言いたいことがあるようだな」
ハンスは指摘され少し驚いたようだったが、口を開く。
「公爵様、あのように厳しい言葉を仰らずとも……奥様は公爵様のお帰りを、首を長くして待っていらっしゃったのですよ」
「厳しいものか。甲冑は敵兵の穢れた血で汚れているし、まかり間違ってナタリアの手が傷つけばどうなると思う」
「奥様はもう立派な淑女でございます。いつまでもそのような子ども扱いは……」
「子ども扱いなど……」
貴族の子どもは、市井の子どものように、いつまでも無邪気なままではいられない。
男子であれば国のため、女性であれば家のため、多くの責務を果たすことを期待され、本人が望む、望まないに関係なく大人にならざるをえないのだ。
――それに、あんな表情をする子どもがどこにいる?
頭に浮かぶのは、はじめて公爵領で出迎えた時の怯えた眼差し。
その涙に濡れた瞳にはたしかにクラウスがうつりこんでいた。
はじめて共に食事をした時もそうだった。
クラウスが食堂に入ると、彼女は顔を青ざめさせた。食事中もずっと黙ったままだ。
それは幼いながらに食事中は静かにしなければならないことを淑女としての心得として学んだからというだけではない。
『ここでの生活には馴れたか?』とクラウスが尋ねると、『は、はぃ……』と言葉すくなに答えるだけだった。さらにクラウスがワインのボトルに手を伸ばそうとした時、ナタリアはまるで自分に何かされるのではと思ったように身構え、その拍子にナイフとフォークを取り落とした。
それからだ。
できるかぎり、一人で食事を取るようになったのは。
いくらクラウスが人の心の機微に敏感ではないとはいえ、あれがただの緊張や環境の変化のせいで起こったことでないことくらいは分かる。
そう、ナタリアはクラウスを怖れていた。まるで見知らぬ土地ででくわした獣のように。
「公爵様、お疲れで御座いましたら、このままお休みになりますか?」
「いや。大丈夫だ」
すでに甲冑は脱がされていた。クラウスは用意された部屋着に着替える。
「……留守の間、起こったことを聞かせてくれ」
「はい。領地に関してでございますが……」
「まずは妻のことからだ。何か不自由をしている様子は?」
「ございません」
「だが、今日着ていたドレスは以前にも見たことがあるものだった。女は毎年、流行のものを買うはずだ。少なくとも軍の連中の話を聞く限りは、そうらしいな」
「奥様はまだ着られるからと、新しいものや流行の品々をお薦めしてもお断りになられます……。奥様はものを大事にされる方ですので」
「そんな必要はないと言っておけ。ドレスを何百着買おうが、装飾品をいくら買おうが、公爵家は傾きはしない」
「……かしこまりました」
今の自分がナタリアにできることは物を与えることだけ。
クラウスにとってはそれが虚しくて切なかったが、他にどうすれば良いのか分からなかった。
他に彼女のことを大切だと伝える名案は浮かばない。
叶うなら、彼女と公爵領で初めて会ったあの日に戻り、全てをやりなおしたかった。
しかしそんなことは実際にはできない。
ならば、今できることをするしかない。
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