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第一章(5)
夕餉を終えたナタリアは、すぐに部屋に引っ込んだ。
一人で取る食事は慣れっこだったはず。
クラウスが留守の間はずっと、一人で食事をしていたのだから。
なのに、今回は食事を取りながらも何度も心が折れそうになってしまった。
それでも機械的に手を動かし、ほとんど味を感じられない食事を無理矢理飲み込んだのは、使用人たちを慮ったからだ。
――何をしても、私たちの関係は破綻してしまっているんだもの。私ってば一体なにを期待していたんだろう。
食堂を出たナタリアが感じたのは惨めさ。
帰ってきた夫がナタリアにとつぜん興味を持ち、これまでの仕打ちを詫びるとでも思っていたのだろうか。それとも、半年ぶりに再会した夫が人が変わったように愛を囁いてくれるとでも思っていたのだろうか。どちらもありえないというのに。
ナタリアは部屋に戻るとバルコニーへと続く扉を開けた。
春の冷たい夜気が、頼りないほど細い体を包み込み、吹き抜けていく。
空に浮かんだ三日月が青白い光を地上へ投げかけている。
どうしてよりにもよって、こんなに美しい月夜なのだろう。
――……今日の夜は明るすぎるわ。
こういうところもナタリアの不運なところだ。徹底的に運に見放されている。
しかしやるべきことは変わらない。
「奥様、お休みになられないのですか?」
シャティが尋ねてくる。
「まだちょっと……。クラウス様はどちらにいらっしゃるの?」
「おそらく離れかと」
「……そう」
なんてあてつけなんだろうか。
本宅を妻に明け渡し、自分はこぢんまりとした離れへ。
その離れは、結婚して間もなくわざわざ造ったのだ。
そこまでしてナタリアと同じ空気を吸いたくなかったのかと悲しくなってしまう。
幼い頃は仕方がなかっただろう。
妻とはいえ、八歳。ただの子どもだ。
愛を囁くよりも、あやすと言ったほうが良い年齢で、クラウスは子どもをうまくあやせるような人には見えない。しかし妻としての義務を果たせる年齢になっても、彼は決して離れから出ることはなく、ナタリアの寝所に向かうこともなかった。
妻から誘うことは女性としてはしたないと言われているから、自分の意思でどうにかすることもできない。
だから、ナタリアはただ待ち続けた。
今日も来ないと分かりながら待ち続けることがどれだけ苦しかったか。
――こうやって考えてみると、私はただの馬鹿ね。もっと早く行動に移すべきだったのに……。
今日が最後だと、覚悟を決めていた。
今日の夫の行動に自分たちの未来を賭けてみよう、そう思って色々と試してみたが、何ひとつとしてうまくいかなかった。
むしろ足掻けば足掻いた分だけ、虚しさと徒労感ばかりが増す結果になってしまった。
「……こんなものなのね。私たちの関係は」
政略結婚といえども、これほどひどい結婚があるだろうか。
未だ初夜すら迎えていない。
愛していなかったとしても世間体を考えて抱こうとするのに、クラウスはそれすらない。もちろん愛のない肉体関係でも良いと思っているわけではないけれど、夫婦の義務すらクラウスが果たすつもりがないことが悲しかった。自分には妻としてだけでなく、女としての価値もまるでないと告げられているかのよう。
「シャティ。休んでいいわ。あ、ランプは消さないでね」
「は、はい。ですが……」
シャティはどこかそわそわしていた。それが気になった。
「どうかした?」
「あの、奥様……使用人の立場でこのようなことを申し上げるのはおこがましいですが、公爵様が悪いと思います。奥様は何も悪くございません。ですから……」
こんな風にシャティに気を遣わせてしまっていることが申し訳ない。
――それでもあなたが味方でいてくれると思うと心強いわ。
「ありがとう」
最後くらい涙はみせない。ナタリアはにこりと微笑んだ。
シャティは「おやすみなさいませ」と部屋を出ていった。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、ナタリアはすぐに夜着から動きやすいズボンとシャツに着替える。
そしてこの日のために用意した頑丈なロープを寝台の下から引っ張り出し、そして最低限の着替えと換金するための装飾品を詰め込んだバックを背中に負う。
ナタリアの計画。それは夜逃げ。
冷血漢の夫とは一分一秒もいたくはなかった。
兄の元には帰りたくない。それだけは絶対にありえない。
両親はすでに亡くなり、頼れる人もいない。
ひとまず祖父母がつかっていた別荘を目指すつもりだ。
ここからはおよそ一週間くらいの距離にある。
すでに祖父母はおらず、子どもの時以来別荘に行ったこともないから、どんな状況かは分からないが、とりあえず雨露をしのぐくらいには使えるだろう。いや、使えて欲しい。
ベランダの手すりにくくりつけたロープを、垂らす。
ベランダから下を覗き込む。ここは三階だ。何度も予行演習をこっそりしてみたが、馴れるということがない。
「い、いくわよっ」
自分自身を鼓舞するように声を出す。
ナタリアは手の平がすりきれないように鹿革の手袋をはめた上で、ロープにすがりつき、かなり不格好な姿でズルズルと下りていった。
「ひい……や、やっぱり高いぃぃ……っ」
ぎりぎり悲鳴にならない声を漏らし、どうにか地面へ着地に成功。
城内の庭のあちこちには、公爵家の衛兵が見回りに立っている。
しかし十年間もここに住んでいるのだ。
どこに兵士がいるかくらいは完全に把握済み。
もちろん一番警戒が厳重な正門から逃げるような馬鹿な真似はしない。
茂みに身を隠し、匍匐前進で進む。向かった先は城の裏手。
見つかるかもしれないというドキドキと、ついに逃げられるという高揚感が体の中で混ざり合い、興奮で体が熱くなった。
――こんな気持ち初めてだわ!
当然裏手にも警備はいるが、表ほどの厳重さではないし、そもそも平時とあって夜警の兵士たちの気が抜けているのは知っている。そして彼らにメイドが決まった時間に飲み物の差し入れをすることも。
ちらっと裏手の様子をうかがうと、三人の兵士が壁に寄りかかったまま、眠っていた。
足下には飲み物の入ったカップが転がる。
薬草を元にした睡眠薬を仕込んでおいたのだ。
――ごめんなさいっ。
心の中で謝り、裏門を抜ける。
その先を進むと土手があり、小さな川が流れている。そこにはいつか、川遊びがしたいと使用人にお願いして係留させた小舟がある。
その時、月明かりがにわかに陰った。雲が出て来たのかなと思っていると、
「こんなところで何をしている?」
獰猛な獣一頭を楽々殺せそうな低い声に、おそるおそる顔を上げれば、血のように真っ赤な双眸とかちあった。
「お前たち、一体何をしている!」
クラウスは門を守っていた兵士を怒鳴りつけるが、彼らがぴくりともしない。クラウスが連れて来たであろう兵士たちが「完全に熟睡しています」と報告をする。
「……睡眠薬を盛ったのは私です。だから彼らを処罰しないでください」
「屋敷に戻るぞ」
クラウスが手を伸ばそうとするのを、ナタリアは身を引いた避けた。
中途半端なところでクラウスは手を止め、自分の手をじっと見つめた。
「私のことは放っておいてください!」
「何だと?」
「私になんて興味がないくせに、どうして邪魔をするんですか! 私がいなくなったほうが、あなたはせいせいするのではないですかっ!?」
「馬鹿なことを」
まるでわがままを言う子どもを相手にでもしているかのような口ぶり。
「ば、馬鹿なのはあなたですっ!!」
ナタリアはもうヤケになって叫んだ。
これからどんな罰が自分を待ち受けているのかを考えるだけで、身がすくむ。
しかしもうなにもかもがどうでも良くなっていた。
どれだけ努力をしてもどうにもならない現実を前に、心はとっくの昔に擦り切れてしまっている。
自分にはもう何も失うものは何もない。ナタリアを心配してくれる人もこの世には誰もいない。
絶叫したナタリアは肩を大きく上下させ、フーッ、フーッと息を荒げる。
「……気は済んだか」
「はいっ」
「俺の部屋へ連れていけ」
クラウスは兵士たちに対して命じた。
「奥様、参りましょう」
兵士たちが促してくる。ここで抗っても兵士たちが怒られるだけだろう。
さすがに自分のせいで関係のない人が叱責されるのは気分が良くない。
「……一人で歩けるから大丈夫」
ナタリアは自分の足で、クラウスの後に続いた。
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