プロローグ

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プロローグ

 よく晴れた昼下がり。  帝国で最も権威のある大聖堂は、祝福に包まれていた。  今日ここに、一組の夫婦が誕生するのである。  列席者には皇帝一家をはじめ、この国の中枢が一堂に会したと言われるほどのお歴々が集まっていた。  彼らの視線の先にいるのが、黒いタキシード姿の青年。  曇りのない青みがかった銀髪、涼しげな目元。  二重の切れ長の瞳はルビーのように曇りなき緋色で、色白の肌によく映えた。  伸びた背筋、均整の取れた体格は彼が優れた騎士であることを物語る。  彼のその鍛えられた鋼の肉体はいたずらに見せびらかすものではなく、柳のようにあらゆる困難に向かっても決してしなやかさを失わぬ、本物の強さ。  彼の名は、クラウス・ド・ベルモント公爵。  若干、十五歳にして流行病で亡くなった父親の後を継いでより公爵家の総領になると同時に、その年齢からは考えられないほど多くの実戦に参加しては戦功を上げ、自身は無傷で帰ってくるという生ける伝説。  市井の人々はクラウスをして、帝国の軍神と敬愛する。  そしてそんな彼の相手だが。 「花嫁の入場です!」  先触れの声が、大聖堂に響き渡った。  父に手を引かれて現れた花嫁に、参列者たちは慈愛の眼差しを向け、手を叩いて迎える。  ナタリア・クロワ・ボーウィン伯爵令嬢。  造花で飾られたつやつやした黒髪に、猫のように円らな瞳は緑柱石のように澄んでいる。  しかしナタリアは父の手にしがみつき、自分を見つめる参列者たちに怯えた視線を向けていた。  それは仕方がない。なにせナタリアは先月、八歳になったばっかり。  事前に結婚というものについて教えられていたものの、八歳の少女にどこまで理解できたかは怪しい所である。  十八歳の花婿と、八歳の花嫁。  帝国の軍神であるクラウスと、自身の縁者である伯爵家を結婚させることで、クラウスを我が子である皇太子の側近にしたいと考えた皇后が主導した政略結婚。 「さあ、公爵様の手を握りなさい」 「や、お父様ぁ……」 「ナタリア。説明しただろう。しっかりやらないといけないよ。分かったね?」  父親はしがみつく娘の手を離させ、そっと背中を押す。  父の手を離れて心細さに目に涙をいっぱいにためた少女は、自分の夫となる人を仰ぐ。  クラウスと視線が重なる  少女にとって、その真っ赤な双眸はまるで血のようで怖ろしく、とてもまっすぐ見られなかった。いかに帝国の軍神と敬愛を集める若き公爵といえども、八歳の少女からすれば見知らぬ人にすぎない。 「手を握るんだよ、ナタリア。さあ、練習しただろう」 「……はい」  父の声を背中で聞き、少女はおずおずと手を伸ばす。  クラウスはその手を優しく握った。  何を考えているのか全く悟らせぬ横顔とは裏腹に、ナタリアの手を握るその手は温かく、まるで花嫁の手を大切な宝物であるかのように慎重に扱っているのが参列者にはよく分かった。当のナタリアはまったく気付かなかったが。 「では、これより誓いの儀式を行います」  司祭の低い声が響く。 「新郎クラウス、あなたはナタリアを妻とし、いついかなる困難や災いがふりかかろうとも互いに助け合い、喜びを得た時は分かち合い、生涯を通して真心を尽くすと誓いますか?」 「誓います」  クラウスの声は怜悧で鋭く、ただの一言にもかかわらず参列者は一瞬、息を呑んだ。  そして司祭はナタリアに向かって、同じ言葉を投げかける。  少女はこの時の練習を何日も前から熱心におこなった。  礼儀作法とか窮屈なことが苦手なナタリアだったが、何を言うべきかはすぐに思い出すことができた。言うべき言葉はたった一つだったから。 「はいっ」  きっと、自分が何に賛同したのか、その結果これからどんなことが待ち受けるのか、八歳の少女には知るよしもなかっただろう。  そんな幼い心をよそに、ここにクラウスとナタリアの結婚の誓いは結ばれた。  若い二人の将来を祝福するように、列席者たちは万雷の拍手を送るのだった。
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