猫だまし

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 小山田権蔵(ごんぞう)はTVを消した。面白くなかった。  権蔵は今年56歳、元力士である。前頭筆頭まで昇進したが怪我で早々の引退を余儀なくされた。しかし、引退後始めたちゃんこ鍋店が大当たり。今や大相撲が巡業する地方まで店舗数を広げるまでになっていた。  現役時代、権蔵の四股名は“権ノ久良”、店の名前は“ごっつぁん”だ。  店は権蔵が50歳を超えた頃から軌道に乗っていた。今や運営は後進に委ね本人は悠々自適の生活。住まいも高い塀に囲まれた豪邸が立ち並ぶ閑静な都内の一等地。  だが、このところかつて在籍していた相撲部屋が冴えない。さっきのTV中継でも、部屋でたった一人の幕内力士の負け越しが決まったばかり。既に5時を回り応援したい力士もいない。権蔵は気分転換にゴンタロウを連れて散歩に出ようと思っていた。  ゴンタロウはセントバーナード。権蔵の三代目の愛犬だ。あの“アルプスの少女ハイジ”にでてくる奴。あらゆる犬の中で最も大きい。だが、気性は至って穏やか。滅多なことでは吠えない。  店の開業に合わせて犬を飼い始めた権蔵は、店舗の拡大と共に犬のグレードも上げていく。初代は柴犬のゴン。二代目が秋田犬、タロウ。そして、三代目が今のゴンタロウだ。  現役時代の権蔵は、小兵だが抜群の運動神経。土俵をスピーディーに動き回る力士だった。得意な技は”猫だまし”。決まり手は“肩すかし”。  ”猫だまし”は、立ち合いで相手が飛び出した瞬間、目の前で両手をパチンと叩き、相手が驚く隙に攻め込む奇襲戦法だ。  権蔵は大きな目、太い眉が男らしい精悍な顔立ちだ。そのため、仕切りの時に相手を睨み続けると、猪突猛進タイプにはこれらの技が良く効いた。しかし、調子に乗って使い過ぎた。相手の怒涛の反撃により自らこける“腰砕け”で負けが込んでいく。そして、ある時、本当に腰を怪我して引退に追い込まれた。  店を始めてからの権蔵は、最初の頃こそ苦労が絶えなかったが元々商才があったのだろう。その精悍なマスクに浴衣、雪駄、ちょんまげ姿で自ら店内を機敏に動き回り評判を呼んだ。また、入り口の両脇に等身大の招き猫を2匹据え、お客が通ると盛大な拍手の録音が出迎えた。ところが、暖簾をくぐって引き戸を開けると、お客が思わず「ちいさっ!」と声にするほど店が狭い。これが大いに話題となって口コミで広まった。  極めつけは、店の看板メニュー“ちゃんこ・肩すかし”。ちゃんこ鍋の残り汁で採ったすまし汁とどんぶりに盛った暖かいご飯だけ。たが、汁をかけて食べるどんぶり飯が絶品で、昼食時のサラリーマンや建設現場の作業員に大うけ。連日行列が絶えなかった。  権蔵の店は、権蔵自身の経歴やユニークな店構え、そして肝心要の味の良さからTVのグルメ番組やネットで露出が高まり店は順調に拡大していった。  現役時代筋肉質であった権蔵だが店が拡大するにつれ、自らの体型も次第に立派になって行く。今頃になって漸く体つきが横綱のようになっていた。一方、顔つきは相変わらず。大きな目、太い眉、精悍さはそのままにふくよかな貫禄も付いていた。さすがに、ちょんまげはもうないが清潔感ある短髪だ。長年の習慣であろう。現在も権蔵の普段着は浴衣に雪駄が常だった。それゆえ、権蔵が犬を散歩させる姿は、上野公園の有名な銅像を彷彿とさせていた。散歩で出会った近所の子供たちから、しばしば「あっ!山の手のさいごうさん」と声を掛けられた。  権蔵が雪駄を突っ掛け庭に出ると、寝そべっていたゴンタロウがむくっと立ち上がった。たれ下がった目が権蔵をじっと見つめる。権蔵が傍に寄り「おぅ!ゴンタロウ」と微笑みながら首筋をなでると、ゴンタロウは大きな尻尾を二、三度振ってお手をした。権蔵の先ほどまでの固い気持ちが急速にほぐれだす。権蔵はリードをしっかり握り、大きな門扉脇の通用口へ向かって行った。  権蔵が扉を開け、ゴンタロウと共に通用口から出た時だった。目の前をもの凄いスピードでロードバイクが横切った。ゴンタロウがバイクを追って、塀沿いをぐいっと右手へ走り出す。つられた権蔵、体制を崩し反動で左足を大きく蹴り上げた。 「あっ」  権蔵の足から雪駄が発射し天高く舞い上がる。雪駄はぐんぐん塀を越え、右コーナーへ消え失せた。なんと見事な放物線。それは同時に権蔵のリードを持つ手が緩んだ瞬間(とき)だった。 「バウ!バウ!バウ!」  待ってました!とばかりゴンタロウが雪駄を追って走り出す。ゴンタロウはあっという間に走り去り、その姿はもう見えない。  慌てる権蔵、重い体でケンケンだ。が、どうにもこうにももどかしい。 「ええい、ままよ!」  右足の雪駄を剥いだ権蔵、それを片手に走り出す。 「はっはっ。はっはっ。はぁっ、はっはっ」  息も絶え絶えに権蔵が右折した時だった。  招き猫のポーズでゴンタロウが雪駄を咥えて待っていた。権蔵を見つめる目が何とも言えず優し気だ。  裸足の権蔵、左手に雪駄。四股のポーズで右手で手刀。ちょっとはにかみ、のたまった。 「ごっつぁんです」
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