女王蜂の嘘

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 結局、警察の調べで彼女の死因が転落事故と片付けられたために捜査はあっけなく終わり、彼女がここにいたという痕跡ともいえるものはほとんど残されてはいなかった。実際、彼女の机は窓際の端に移動され、中身は空っぽだった。  英子はかつて沙羅が使っていた机の前に立った。彼女の机は傷一つないきれいなものだった。  英子はそっと天板の上を撫でてみる。彼女はよくこの席に座って、物思いに耽っていた。頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺める姿。彼女の周りには常に誰かがいて、楽しそうにしているのに、沙羅だけはどこか遠い場所にいるかのようだった。退屈だったのか、考えたい事が他にあったのかはわからない。ただ、心ここにあらずといった感じだった。  英子は椅子を引いて座ってみる。彼女と同じように頬杖をついて、窓の外を眺めてみた。そこから見えるのは広いグラウンドと構内を取り囲むように植えられた木々や生垣、そしてただ広がる空だけだった。  校舎の下には沙羅が落ちた場所が見えた。うっすら残る血痕。今も近付かせないようにカラーコーンで囲まれている。  結局のところ、最後まで英子が沙羅の遺体を見ることはなかった。そこに恐怖もあったかもしれない。一度見てしまったら、きっとその光景が目に焼き付いて離れなくなるだろう。しかし、それ以上に英子は沙羅の変わり果てた姿を見たくなかったのだ。英子のイメージする沙羅はいつも穏やかな表情で、彼女の周りには心地の良い静かな時間が流れているような気がしていた。もし彼女の遺体を見てしまったならば、もうその時の彼女を思い出せなくなるだろう。  英子はそっと机の中に手を差し込んでみた。案の定、中には何も入っていない。そしてさらに奥へと手を入れていく。その瞬間、指先に痛みが生じた。慌てて手を引いてみると、指から血が流れていた。  英子は驚いて、椅子から飛び上がる。椅子は後ろに倒れ、大きな音を立てた。  指の血がどんどん溢れてきて、手のひらを真っ赤に染めていく。手首を握りしめながら、もう一度、沙羅の机の中を覗いてみた。その真っ暗な影から、白い手のようなものが出てくるように見えた。 ――美堂さん?  英子は唾をのんで、その光景を見ていた。白い手からだんだん腕まで伸び、次第に長い髪が現れた。真っ黒な長い髪。  英子の鼓動はだんだんと早くなる。美堂さんの幽霊が出て来たのだと英子は思った。彼女は志半ばで逝ってしまったのだ。きっとこの世に未練だってあるだろう。だから、私の前に現れたのだと。  腕はさらに伸び、次第に頭まで机の外に出てきた。乱れた長い髪に隠れて顔は見えない。見てはいけない。逃げないといけない。そう思いながらも英子は動けないでいた。その俯いていた顔が次第に上を向き、英子と目が合いそうになった。 「きゃああああ!!」  気が付けば、英子はその場で蹲み込んでいた。動悸が更に激しくなる。怖かった。何かとんでもないものを呼び出してしまったと思った。直視するのが怖い。けれど、このままでいるのも恐ろしかった。  しかし、いくら時間が経っても、蹲って顔を伏せる英子には何も起きなかった。恐る恐る顔を上げてみると、そこには中身が空っぽのただの学習机と、倒れた椅子があるだけだった。  なぜ気が付かなかったのだろう。亡くなった人の過去を探るということはこういうことなのだ。もし、彼女がこの『死』を後悔していたとしたら、英子は彼女の反感をかってしまうかもしれない。幽霊なんて信じてはいなかったが、こうして身近な人の『死』を知った時、それが起こりうることだと感じた。  英子はそっと指先を見つめた。中指の先が何か刃物のようなもので切れていた。血はにじんでいたが、流血するほど流れてはいない。  自分の身に想像もつかないことが起きて、英子は動揺したのだ。そして、表面上では死んだ人間が現実に干渉するなんてありえないと思いながらも、そうではないかもしれないという真逆な考えが深層心理の中にあった。だから、英子は手を切った衝撃で幻を見たのだ。近寄ることすら怖いこの場所に、平然と踏み入った自分に見せた幻だった。  英子は自分を一度落ち着かせるために、蹲ったまま深呼吸をする。身体はまだ小刻みに震えていた。  彼女の死の真相が知りたい。しかし、本当に調べていいものなのか。とんでもないものが出てくる可能性だってある。自分にその覚悟があるのだろうか。これは一種の墓荒らしのようなものだ。  英子はゆっくり立ち上がり、転がった椅子を元に戻した。そして再び、机の奥を覗き込んでみる。目を凝らしてみると、机の奥に空気口のようなものがあって、そこに何か光るものが挟まっているのが見えた。同じ過ちを犯さないようにと、今度はポケットの中に入れてあった厚手のハンカチでその光るものを引っ張った。  ハンカチの中を覗くとそこにはカッターの刃が入っていた。つまり、沙羅の机の中にはカッターの刃が仕込まれていたのだ。 ――彼女はやはりストーカーから嫌がらせを受けていた。  その噂は事実のようだ。あまりにも小さな仕掛けで、中の荷物を撤去しなければ気づかないようなものだった。日頃から使っている相手だけを傷付けようとした嫌がらせにしか思えない。  英子はぎゅっと唇を噛んだ。  一瞬、もしかしたら本当にと思った。こんな仕掛けをするような人間がいるのだ。エスカレートして、彼女を突き落とすことだって十分にありうる。あれは単なる事故だったと簡単に片付けることはもうできない。悩んではいたがやはり真実を追求しようと、英子は覚悟を決めた。
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