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フィウミチーノ空港
「ふぁ~っ」
「まだ眠いですか?」
チェックアウト中に大きな欠伸が出ると、トモが顔を覗き込んでくる。
「ううん。大丈夫……」
「そうですか? ソファーに座って待っていてもいいんですよ」
彼の気遣いに首を小さく横に振って、欠伸で出た涙を拭う。
チェックアウトに、そんなに時間はかからないだろうから側にいるほうがいいと思う。今日は一緒に待ってくれるシモーネもいないし……
それに今ソファーに座ったら寝てしまいそう。
うう、昨日は酷い目にあったわ。これからはトモを襲うのはやめておきましょう。
私は改めてかたく決意した。
「花梨奈さん、大丈夫ですか?」
チェックアウトを終えたトモが心配そうに声をかけてきたので、ニコッと微笑み返す。
「もう大丈夫だから、お母様のお土産を選びに行きましょう。恥ずかしい話だけど、何が好きなのか全然知らないの……。何にすればいいかしら……」
「なら、これからたくさん知っていきましょう」
俯くと、彼が慰めてくれる。
そうよね……。何も知らないなら知ればいい。
トモの言葉に元気が湧いてきて、エヘヘと笑った。
――もう九年も日本に帰っていない。最後に母と会ったのは十代の時だったから、今の私に会ってもすぐには分からないかもしれないわね。
私は苦々しく笑って、トモの服の裾をぎゅっと掴んだ。
母の気持ちが分からないからって、会った日に決まって体調を崩すからって、会うのが怖くてお見舞いに行かないなんて私はなんて親不孝なんだろう。
私はすべてのことに背を向けて、勉強を理由にイタリアに逃げた……
だからきっとトモと出会わなかったら今も何も変わらずにイタリアにいたと思う。だから、そうならずに向き合う勇気を持てたのは間違いなく彼のおかげだ。
私に――私の周りに変化を齎してくれたトモには感謝をしてもしきれない。
「飲食物は好みを外すといけないから、それ以外にしよう。やっぱり雑貨とかがいいかしら?」
私がむむっと眉根を寄せて悩んでいると、トモがスマートフォンの画面を見せてきた。
そこには老舗のステーショナリーブランドのページが表示されていた。
「ここ、ベートーヴェンやミケランジェロが愛した紙で有名な店なんですよ。現在ではパスポートの紙やユーロ紙幣の製造も手掛けていて、お土産にも最適だと思います」
「へぇ。パスポートや紙幣にも? すごい……」
「行ってみませんか? スペイン広場から歩いて六分ほどなので近いですよ」
「うん、行きたい……」
文房具って見ているだけで楽しいものね。
ワクワクしながらトモが提案してくれたお店に行ってみると、さすが老舗のステーショナリーブランド。店内には、紙で作られた雑貨や魅力的なカレンダーにノート、さらには木で作られた鞄などが並んでいて、歩いた先々で買いたい衝動に駆りたてられた。
「すごい……」
もうすごいとしか言えない。カラフルで目を引くし、それにこの歴史がありながらもスタイリッシュで機能的な文房具たちは、私の心を掴んで離してくれそうにない。
え? どうしよう……。こんなにステキだと悩んじゃう……
あ。このレザー小物、柔らかくて手触りがいい。それにこのスケッチブックと色鉛筆も可愛い。未来の子供のために買おうかしら……
なんだか文房具を見ていたら、昨日の一件で妊娠した気持ちになってきて、母へのお土産とは別にこれから先生まれてくる我が子のためのお土産選びもしたい気持ちになってくる。
私がスケッチブックと色鉛筆を手に取ると、トモが私の目の前にレターセットを差し出した。
「……これは?」
「お土産にレターセットと万年筆はどうかなと思いまして……」
「え……? でもお母様は……」
手紙なんて書かないと思う。
「お母様……。ベッドから動かないって、お祖父様が言っていたわ。だから手紙なんて無理だと思う」
「ですが、花梨奈さんのお母様は別に手を動かせないわけではないんでしょう?」
「それはそうだけど……」
母は心の病なので手や体が動かせないわけではない。心の不調が体の調子まで狂わせているから、ベッドから動けないし話せないだけだ。
でも、調子がいい時は本とか読めたりするのかしら? けど、私からの手紙は読んでもらえないかもしれないわ。
私が戸惑っていると、トモが私の手をしっかりと握り私の目を見据えた。
「花梨奈さんが手紙を書けば、いつかはそれに返事を書きたいと思う日が来るかもしれません。その時のために、レターセットがあったほうがいいと僕は思います」
「でも……」
「ふと返事を書きたくなった時に、手元にレターセットがなければ、諦めてしまうかもしれません。花梨奈さん、万が一のチャンスを逃さないためにもレターセットを買ってみませんか?」
トモ……
不安で揺れる私の目をしっかり見ながら、優しい声音でそう言ってくれる。その声と言葉に背中を押してもらえた。
「お母様の本心を知れるかもしれない手紙欲しい……」
小さな声でそう言うと、トモが「なら、決まりですね」と微笑んでくれる。
トモの優しい気遣いに瞳の奥が熱くなった。涙ぐんでしまうと、彼が優しく背中をさすってくれる。
「ねぇ、トモ。これは私のお金で買ってもいい? これは買ってもらっちゃダメな気がするの」
「もちろんです」
「ありがとう。大好きよ、トモ」
トモが快諾してくれて、胸がじんわりと温かくなった。気持ちを汲んでもらえたのが嬉しくて、彼に抱きつく。
「このあとは食事に行きましょうか?」
「ええ、そうね」
胸元をぎゅっと押さえながらレジへ向かう。レターセットを買ったあとは、ローマ最後の食事をして空港へ向かった。
実は念のために、トモに内緒でスケッチブックと色鉛筆も買った。本当になんとなく。念のために……
【挿絵 : 灰田様】
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