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*
桃太とわたしは、夜の散歩を終え、横断歩道の前で信号が変わるのを待っていた。
ここを渡れば、家まではあと五十メートルほど――。
家に着いたらリードを外して、それから水入れに新しい水を汲んで――。
突然、耳をつんざくような衝撃音が響いた。
信号が変わった途端、交差点の真ん中で車同士が衝突したのだ。
一台の車が、弾かれるようにして吹っ飛び、わたしの目の前に迫っていた。
わたしは、リードを放して、思い切り桃太のおしりを蹴飛ばした。
(逃げて、桃太!)
錯綜する眩しい光、激しい衝撃、桃太の小さな後ろ姿――。
一瞬の出来事だった――。
そして、わたしは深い眠りについた――。
*
「マリーカ、今夜は、そこまでにしておおき」
「わかりました、オレステさん。このページを写し終えたら、今日は終わりにします」
古書店の奥の文机で写本に励んでいたマリーカは、彼女を心配して起きてきた店主に、感謝の笑みを浮かべながら答えた。
文机の上の小さな皿には油もろうそくもないが、写本をするのに十分な明るさの光の球が浮かんでいた。マリーカが使えるささやかな魔法――光魔法が生み出す灯りだ。
「小さな灯火だって、長いこと点けていれば魔力をたくさん使うことになる。頑張りすぎると体にさわるよ。早くおやすみ」
マリーカが自室へ行くまで、オレステはずっと見守っているにちがいない。
それはそれで申し訳ないので、マリーカは急いで本を閉じ紙束やペンを片づけた。
「そうですね、もう二階へ上がります。おやすみなさい、オレステさん」
「おやすみ、マリーカ」
マリーカは、灯りが点った皿を手に持ち、店の脇の細い階段を上った。
その先にある屋根裏部屋が、彼女の部屋だ。
それなりの広さがあり、必要な家具もそろっている。小さいながら窓もある。
田舎から出てきた若い娘が一人で暮らすには、立派すぎる部屋だった。
「おやすみなさい」
ひとりぼっちの部屋で、誰に言うでもなくつぶやいて、マリーカは光魔法の灯りを消した。
仕事を早く片づけたくて、夜更かしをしていたわけではない。
眠るのが、夢をみるのが怖かっただけ――。
この半月ほど、繰り返しみているくせに、夢の中身はまったく覚えていない。
はっきりしているのは、夢をみた後、心がひんやりして涙があふれて止まらなくなるということ――。
潜り込んだ寝台の温もりは、冬が去ったことをマリーカに教えてくれた。
もう、寒さで真夜中に体を震わすことはない。
あとは、心だけ――。心が芯からあたたまるような、幸せな夢をみて眠りたかった。
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