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風に舞う(ダンシング・イン・ザ・ウィンド)
L高の敷地内で最も天上に近い場所――といえば、植物園の中にそびえ立つ古ぼけた時計塔の頂上である。時計塔の中の螺旋階段を上り続けた先には、設計者の美的感覚が十二分に発揮されたであろうステンドグラスをあしらった大窓があり、そこからL高に流れる全ての時を見渡すことができるのであった。この場に咲く花をすべて巻き上げてしまいそうな風が、麻野の頬を打っている。彼が時計塔に赴いたのは、言いようもない、胸を焦がすような予感に掻き立てられたことが一番の理由だったが、彼が初めてJという少年に心を奪われた、あの過ぎ去った日を想起させることもまた要因であった。
……かつて、高い音楽的技術を持ちながらも周囲の人間との衝突が(今より)絶えなかった麻野が、人目を避けるようにして時計塔を上っていたときの出来事である。夏の到来を近くに思わせる、暖かな風が閉じた塔の中にも関わらずそよそよと流れ込んできていた。麻野が頂上の小部屋に足を踏み入れると、そこには先客が――当時L吹に入って間もなかったJが、大窓を開け放って、色彩豊かな細かな光を浴びながら、空に向かって色とりどりの風船を解き放っていたのである。青空に吸い込まれていくように、Jの手元を離れた風船が次々と風に乗り、その身を任せて浮遊している。何をしている、とか迷惑だと思わないのか、とかいう常識的な非難が喉につっかえて出てこない麻野に振り返ったJは、あの魔術的な可愛らしい微笑を浮かべて、(風を、見てみたくて)と呟いた。(風? 突然何を?)と困惑する麻野をよそに、(風船、麻野先輩のフルートみたいに綺麗でしょう。俺もユーフォでこうやって吹きたいんです)Jはどこまでも眩しすぎる希望のようなもので透き通った瞳をしていた。木管と金管の構造上の断絶よりもむしろ、麻野はフルートとユーフォニアムの総譜(フルスコア)上における音階の共通言語を親しみ深く感じていた。と同時に、自分がどんなに孤独を感じても、Jの音楽が寄り添ってくれるであろうという、魂の確信的な抱擁を受け取ったのだった。遠くなっていく風船を眺めながら、麻野もまたJの隣で彼の言う『風』に思いを馳せていた。後にも先にも、風船がL高に舞ったのはこの運命の日だけであったが、少年たちはそうした感情の交換を経て、いつしか互いをかけがえのない存在として想い合うようになり、現で見る夢のワンシーンとして浸るようになっていったのである。……
麻野が時計塔を地上から見上げると、ちょうどあの日の風船のように、ひとつ黄色の小さな点が頭上に現れていた。その正体に思い当たる前に、点であった何かは麻野の足元へ落下した。(風車……)黄色と白と緑の固い羽根のついた風車を用いて、Jがまた風を探して――『ダンシング・イン・ザ・ウィンド』のソロに音を乗せて羽ばたけるように祈っているというイマージュは、麻野の胸中にカラフルで悲痛な印象を抱かせるのに十分であった。落としてしまった風車を探してであろうか、Jが地上を、麻野の重たげな視線をじっと見つめている。
「J、無断欠席は――」
今度こそ発せられた麻野の職務的な正義感は、窓縁にJが足をかけているのが目に入って、またしても引っ込めざるを得なくなってしまった。まるで自分がこれから旅立とうという鳥でもあるかのように、ごく自然の摂理として、Jはしばらくそうして佇んでいた。麻野の制止の叫びは、どれも空に吸い込まれていってしまう。一か八か、時計塔に乗り込んでJを直接捕まえるしかないと麻野が重厚な鉄製の扉を見やったとき、Jの姿は無くなっていた。ステンドグラスの大窓は内側から閉じられており、精緻なアンティーク調の模様(パターン)が静謐な輝きを放っていた。
「麻野先輩!」
唸るような音を開けて時計塔入口の扉が動いた。頬を紅潮させたJが飛びつかんばかりに駆け寄ってきたのを見るにつけ、翼のある天使にも足が生えているのは花園を走り回るためなのではないかと感心する麻野である。彼は成長と共に失ってしまっていた、瑞々しくどこか面映ゆげな眼差しをJに当てていた。
「今度こそ、風を掴めると……風に乗れると思って。昨日の先輩の演奏を聞いて、そう思って……」
とめどなく言葉が溢れてくるといった様子のJからは、迷いや不安といった一切の感情の拘束は払拭されていたようであった。美しいものを探し求めて表現したい、麻野と共通して抱いているその使命こそが何よりも強固な結びつきとなって、Jをこの地上の世界に留めたのだ。麻野は言葉を発することなく、ただわずかに頷きながらJがついに手にしたユーフォニアムの福音を聞いていた。今やL吹の心が集まる場所といってもいい、Jが音を外すということは、麻野にとっては特に、むき出しになった魂に癒すことのできない傷をつけられ、これまで信じてきたものを否定され崩されたかのように思われる出来事であった。しかし、それは彼のJへの憧れの屈折と、錯綜した美意識が複雑に絡み合った結果現れただけの単なる行き違いであったのかもしれない。現にJはミスへの責任など何も感じていないかのようで、母親にその日体験した出来事を抑えられない歓喜と興奮と共に語る小さな子供のような調子であった。そんなJがひとしきり語り終えてちょっと口をつぐんだ後、舌に乗せた飴でも転がしているかのようなたどたどしい発音で、ぽつりと呟いた。
「でも、貴方が見えたから。飛ぶのはやめました。堕ちたら、あの曲も吹けない」
「重力が無ければ、捕まえてやれるかもしれないが」
麻野が風車を拾ってJに返してやると、Jはそれをまじまじと眺めた後、艶のある唇を尖らせてふーっと吹いた。風車の歯が回りだす。一瞬のインターバルの後、麻野はJにぱっと手を掴まれて、音楽室へと走り出すことになった。朝練で毎日行われるランニングで鍛えられているのもあって、麻野が驚いている暇もなくこの偶然のランデブーはぐいぐいと加速していった。風の中に微かに香る花々や、随分と見慣れたはずのL高の景色がいつもより輝いて見えるかのような心持、過去の空に飛んでいた風船、それらがJに手を引かれる麻野に純粋でダイレクトな印象として迫りかかって来る。(時間がもし、もっとゆっくり流れてくれたなら……)叶わない願いを思うのは、麻野の流儀ではない。彼はきっと早く合奏に参加したくて目を輝かせているであろうJを想像しながら、彼が今日掴んだ『風』を大人になっても絶対に忘れないでいたいと誓ったのだった。
大川とJたちが到着した時間にさほど開きが無かったので、麻野も二言三言Jに心にもない『指導』を加えるだけで済み、L吹部員たちによる好奇心からの追及を特段受けず(単に麻野に興味本位で質問をするという選択がもたらす結果が目に見えているからというのも大きい)に合奏の席に着くことができた。Jはいつもそうしているように、彼の楽器を横に抱えて、宙を静かに見つめていた。城戸がJに(お帰り)と弓の先を小さく振って合図している。Jがそれに気づいて、なぜか譜面台の端に乗っている風車を見せて、指でくるくると回した。大川はL吹の今日の気迫を予想していたとばかりに、ひとつ息を吸って、挑戦的に開始を告げた。
「『ダンシング・イン・ザ・ウィンド』頭から行くぞ」
楽器を構える。指揮棒の一点に意識を集中する。Jが帰還したことで、空いたピースがはまってL吹という一つの絵画が完成したという、絆とも呼ぶべき連帯感。低い音のクラリネットから始まり、主題に向けて力強さを増していく演奏。連符においても一つ一つが宝石の粒のような麻野の音の裏に、Jの和やかで、琴線にすっと触れてしまう音が重ねられる。大川がレンズ越しに力を込めて、Euphの譜面を追っている。練習番号がEに差し掛かる。フルートをはじめ多くの木管楽器に休符が与えられるこのパートであるが、麻野はフルートを立てて休むことも忘れて、Jのソロを待ち望んでいた。そして示されたその唯一のメロディーは、完全に調和した音程で、まさしくふわりと風に乗って、皆の心の奥底にある『最上のもの』を照らし出していくのであった。皆が懐かしく思い、遠くにも近くにも超空間的に存在しているかのような、どこかの地に吹いている、風。
そう、と麻野はふと思い至ったのだった。Jの名前は『風雅』――この美しい響き以上に、オブリガードの天使を輝かせるものがあるだろうか、と。
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