風の指し示すもの

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風の指し示すもの

 Jの蠱惑的な嘆願は、城戸のどぎまぎとした心にひゅっと飛来して、彼に事態を打開する力を与えた。城戸はコントラバスを置いて、ぱらぱらと立っている譜面台の間を縫って今まさに麻野に掴みかかるかという西に向かって呼びかけた。  「あの、先輩たち、喧嘩しないでほしい……んですけど」  城戸は先輩同士の仲裁という、普段の彼なら絶対にしない行動を自分がとったことに対する困惑と戸惑いから、Jの魔法のようなメッセージが自分の期待がこもった幻覚なのではないかとすら考えだしていた。(城戸が行ったぞ)と、どことなく安堵した空気が部員たちに流れた。しかし、西をありったけの侮蔑を込めて睨みつけていた麻野が、城戸の思わぬ行動に虚を突かれたかというと、そうではなかった。城戸は不幸なことに、麻野がレースのカーテンをもてあそんでいるJの後ろ姿に向かって、月下美人の花が夜に人知れず綻んでいるかのような、優しい眼差しを投げかけていたのに気が付いてしまった。城戸の勇気とJの魔法がイコールであることは、麻野にはお見通しというわけである。そして、麻野とJとの間において、城戸の存在がいかに希薄であるか見せつけられているかのような印象は、城戸に軽いめまいを生じさせた。  (僕はJに何を望んでいるんだろう……。最高の音を奏で続けること? ……Jが誰のことも好きにならないこと?)  「何だよ城戸ちゃん、喧嘩じゃねえよ。麻野が突っかかってきただけだよ。そんな怖かった、俺?」  西はあっけらかんとして、城戸の背中を叩いた。城戸とは対照的に、Jのことなどもう問題ではないと言わんばかりである。西のネックストラップから下がる、テナーサックスの金色から反射する光がぽつぽつと現れだした城戸の思考にまだらな影を落としていた。  「慣れないことして疲れたって顔してるぜ」  物事を深く考えない西は、城戸に疑問を投げかけることなく走り書きのメモで黒くなった譜面を閉じて帰り支度を終えると、口笛を吹きながらすたすたと音楽室を後にした。この日L吹で起きた小さな事件を通して、城戸も朧気ながらにJへ抱く観念の正体を知覚し始めていた。Jは窓を開けて少しだけ涼しくなった柔らかな風を受けながら、少し伸びた前髪を指で撫でつけていた。そんなJを数秒の間呼吸も忘れて見つめていた城戸は、息をついて「帰ろう、J」と努めて友人らしいことを言おうと空虚な微笑みを浮かべていた。Jがまた振り返る。  (城戸……)  Jが城戸の内なる願望を叶えるように、目元に甘やかな色を湛えながらはにかんでいる。Jの魔法に心を奪われた城戸は、(もう一回、あのソロを吹いてほしい)という更なる願望を口に出せずに、不規則に出しっぱなしのコントラバスの弦を弾いた。  2人は物憂げな沈黙の中、寮への帰り道を歩いていた。口数の多くないJが何を見て、考えているのか、想像を巡らせる時間が城戸の楽しみの一つだった。早咲きの金木犀の重い香りがわずかに感じられるこの時季は、幾度となく繰り返されてきた、しかし刻々と移り変わる少年たちのイマージュを投影するのにふさわしかったように思われた。城戸は丸みのある穏やかな声で、果てのない天のどこかを見やっているJに心中を吐露した。  「さっき、麻野先輩が一番にJをかばってくれてよかったよ」  例の噂話を信じて、麻野の名前を不用意に出してしまったことを城戸はとっさに後悔したが、Jは他人から意図を了解されることのない、いつもの謎めいた華やぎをその顔に薄く浮かべていた。それが刹那的な恋の隠喩であるのか、はたまた城戸がJの理解者になり得たことへの喜びであるのか、やはり城戸には分からなかった。しかし、物思いに耽るJの表情に、麻野が先刻溢した微笑との不可思議な連関が存在することに思い至った城戸は、この謎を暴いてみたいという欲求に駆られることになった。追求した先に城戸が思い描いている事実は無いであろうことをわかっていながら、彼はJの瞳を覗き込むように顔を横向けた。  「麻野先輩、Jには優しいから……」  「違う。助けてくれたのは、城戸じゃないか」  Jが実に決然と言い切ったために、城戸は心臓に鋭いものが突き刺さったような感覚になり、呆然とその場に立ち尽くしていた。吹奏楽団の中のコントラバスのように孤独で静かな存在という認識、人間の心の機微を他の者より多く読み取り受け取ってしまう体質、城戸はそれらの要因からJと共にいる時間、関係の心地よさに精神を保つため依存しているところがあった。Jはそんな彼の精神に切り込んで、吹き流れて荒れる風のようだと、城戸はそう思った。Jのまっすぐな言葉と、彼が城戸に向き合った真摯な眼差しは、確かに城戸の心を打ったのだが、同時に、(麻野先輩が好きなら、僕にいちいち感謝なんかしなくてもいいのに)という自棄のような呆れの感情が、心の隙間に冷たく吹きすさんでいた。 その時、2人の頭上に降り注ぐように、フルートの幽玄なメロディーが微かに響いた。『ダンシング・イン・ザ・ウィンド』のフルートのソロである。麻野が一人残って練習しているらしいことは、わざわざ考えるまでもなかった。Jは天の中に、麻野の音を探していたのだろう。彼は目をぐっと見開いて、生まれ出た思考の奔流に身を任せているようだった。  「風……」  目に見えず流れていくものを捕まえたくて、思わず手を伸ばしたJに、城戸もまた倣ってみた。麻野とJは、楽器の垣根を超えて、音楽という語りつくせない概念で強く結びついているのだ。彼らの聖域の一端を垣間見た城戸は、(僕も、届くかな)とどこかJを遠くに感じていた。彼を通して、天使が地上を離れて自身の国に帰ってしまうような情景を見た城戸は、校内を彩る木々の緑が目に染みるように感じたのだった。自分の引くコントラバスの音の上に、Jのユーフォニアムの音が乗る。その尊ぶべき進行が、また明日も続きますように、と城戸は願わずにいられなかった。  「風を、……」  Jの呟きは、彼の小さな口の中で溶けて消えた。外れたあのEの音は、まさに強すぎる風にのって流れ去ってしまったのだろうか? 麻野の演奏を聴いているJの幸福そうな横顔に、城戸は自分の正確な想いをこの場で打ち明けることをやめる決意を固めてしまった。先に寮に帰っているから、とJに告げた城戸は、彼の返事も待たずに足早に帰路を急いだ。終わりかけた夏のくすぶった熱さが、Jへの想いを自身の精神に焚きつけただけなのだ、と言い訳を考えながら。
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