天使のいない箱庭

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天使のいない箱庭

 放課後の音楽室には、先日の不甲斐ないとも評されるべき成果を挽回したいという、L吹の面々の気迫のようなものが言外に漂っていた。しかし、その旗印になるべきJの姿が彼の定位置に無かったので、ある者は気兼ねして、またある者は焦燥に駆られながら、その空白の一点を覗き込んでいた。Jが窓辺に佇んでいたあの光景はイマージュ的に皆の胸にすぐに思い起こされるのに、今日のL吹は、前提条件が狂っているために解きようの無い問題を目前にしているかのような違和感と対峙することとなっていた。  「城戸、ちょっと」  パート練習を終えて、コントラバスを担いで音楽室へ入ってきた城戸に、やや遠慮がちに声をかけたのは麻野である。物分かりの良い城戸には内容がほとんど予想できていたので、彼は多少思慮深げな様子を見せながら、椅子へと立てかけたコントラバスへと視線を落とした。  「Jは今日休みですよ。寮に書置きがありました」  「行先は?」  麻野の問いはいつも端的で、返答には理論的な明確さが要求される。  「分かりません。メモには書いてありませんでした」  「……そうか」  城戸からそれ以上の情報は引き出せないと判断して、ハーモニーディレクターを指揮台の隣にてきぱきと用意しながら、麻野は困惑の混じった、弱弱しさのある怪訝な顔をしていた。すらりとして花をも霞ませるようなこの麗人がL吹の君主たり得るのは、Jという存在から流れてくる神秘の波長に魂を揺らされることで、最上を求めて燃え盛る彼の激しい気性を閉じ込めて均衡をとっているからに他ならない。常に誰かの隣にいるようなJの演奏、ユーフォニアムが吹奏楽の総譜(フルスコア)に入っている意味、それらが溶け合って、麻野の中で何物にも替え難い旋律となっているのである。彼は今日この時までの記憶にある限り全ての時間を巻き戻して、内なるその旋律にそっと耳を傾けて、祈りを捧げているかのように見えた。物事に関する判断基準に芯のある麻野にしては、過去例を見ない、まどろんだ長考に囚われている。  「おーい、大川会議で来るの遅れるってよー」  扉が開けっ放しの音楽室に、西のどたばたとした足音と共に不機嫌なアナウンスが入り込んできた。Jがこの場にいないという事実は、西も承知していたが、Jがいない隙に彼の譜面を乗っ取る計画をすぐに実行できないという、彼独自の身勝手な自論が西を支配しているようだった。しかし、今日この時だけは、多少違っていたようである。  「城戸ちゃん、Jいねーの?」  「まあ、そうですね」  急に話を振られた城戸が淡々と無感動な返事をしたので、西はぐっと目を見開いて、城戸に詰め寄った。  「やべーじゃん。あいつ放っておいたら何しでかすか分かんねーし、マズくね? ほらあいつ窓際とか高いところとかでぼーっとするの好きじゃん、もし落っこちてたりしたらさ……」  ハイエナもかくやという執着心を以ってJの楽譜を狙っていることは棚に上げて不吉な予測を語る西の言葉に、彼が本当にJの身の上を心配しているのかどうか、城戸には信じきれないところもあった。しかし、彼がこれまでの西の発想にはないこの発言を俯瞰して精査したとき、一つの策略がそこにあることに思い至った。(もしかして、わざと麻野先輩に聞こえるようにこう言って、Jを連れて帰って来させようとしているのか?)城戸の脳裏にその考えが流れ星のように瞬いたときには、西はサックスパートの面々を引き連れて、パート練習をしに音楽室を引き上げてしまっていた。西のどこか「やってやった」という風で満足気な、意外に広い背中を見送りながら、城戸はJの使ったあのきらめくような魔法が自身の内にまだ宿っていることを信じて、緊張を含んだ細い声で麻野に切り込んだ。  「麻野先輩、時間なら少しだけあるみたいですよ」  「あいつを連れて来いと、そう言いたいのか」  麻野は彼の思考世界を急激に引き裂かれたと感じたのか、夢見る一人の少年から我に返って、怜悧な瞳で城戸を見据えた。城戸も怯まない。彼には、JをこのL吹という小さな音楽の箱庭に連れ戻し、彼を輝かせるためなら、何もこの世界に怖いものなどないような気がしていた。  「仕方がない。行ってくる。なるべくすぐ戻る」  麻野は数秒目を伏せながら考えていたが、城戸にそう告げると、部長と今日の合奏練習や大川の予定について少々打ち合わせて、確固たる足取りで音楽室を後にした。Jを取り戻そうと決意した麻野が「L吹のため」とか「より良い合奏練習にするため」といった、もっともらしい接尾辞を城戸に対してつけなかったことは、麻野の真っすぐで清廉な心を象徴していたかもしれない。彼はJとの間柄を否定したり、隠したりといった詭弁を一切使わなかったのだ。柔らかな髪をなびかせてJを連れて帰るという使命を果たそうと、手がかりもないのに走り出している麻野の姿は、城戸とJが夕暮れの中で聞いた繊細で優雅なフルートのメロディーと相反しているかのようで、その実何よりも『真実』であると、城戸は爽快とすら思える敗北感と共に実感していた。(風、って言ってたっけ、Jは)城戸も他の低音パートの部員と共に、彼らの根城である数学教室に一時戻ることとした。廊下の窓から城戸の視界に飛び込んでくる茂りきった濃い緑が、ぐらぐらと揺れている、そんな胸騒ぎのする午後だった。
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