Jという少年

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Jという少年

 夏の終わりが、刻々と陽が落ちるのを早めている。少年たちの活力溢れる半袖の白シャツにも、哀愁のある、涼やかな風が当たり始める時節である。夏休み明けの久々の放課後、数学教室の一帯に金管楽器の重いリズムが響いていた。詰められた机を隔てて反対側に、一人の少年が、ガラス的な光の屈折をする賢い猫のような瞳をある譜面にじっと向けていた。確か苗字のイニシャルを取って、『J』と呼ばれていたその少年は、鈍色のユーフォニアムを横に抱えるようにして、新しく与えられた譜面を読み込んでいるというよりはむしろ他人には決して想像し得ない何かに思いを巡らせている、そんな哲学的な美しい横顔を始まったばかりの生ぬるい夕焼けに晒していた。チューバ、コントラバスとの混成であるL高校吹奏楽部低音パートの中にたった一つだけ存在する、オクターブの異なる楽器とL吹生命を共にすることとなったJは、異彩な輝きを持った星であった。スーザのマーチなどを演奏するとなると、彼のパートに対する連帯意識と同調してか、孤高の翔りで低音楽器の世界を超え、花咲くような色彩をもたらすのだった。年頃の少年にしては繊細な造りをした指を四本のバルブに滑らせる。マウスピースから息を吹き込む。絵画的なその肖像は、Jが入部して初めての合奏のときから部員の目に永久のポラロイドとして焼き付いているのだった。  ……数字にするとごくわずかな時間を、もう取り返せないもののように回想する、少年特有の痛ましい感傷に浸りながら馬毛の弓を弦に滑らせているのは、コントラバス担当の城戸である。彼が少しだけ譜面から視線を外したときに、何か心の中の抑圧された感情が表面張力を作用させているかのような、Jの思いつめた顔をちらと見てしまったから、城戸自身胸の奥底にしまい込んでいた過去を思い出してしまったのだ。秋口に行われる学園際での演奏に向けて、『ダンシング・イン・ザ・ウィンド』が合奏練習では精力的に演奏されている。かつて吹奏楽コンクールの課題曲として発表されたのち、吹奏楽の定番として長く愛され続けたこの曲は、悲しいかな公式戦(コンクール)では鳴かず飛ばずのL高吹奏楽部(略してL吹)の面々も大いに気に入り、顧問の大川もこの曲の指導に関しては普段以上に力が入っている様子である。日本のどこかの懐かしい風景を思い起させる、印象的な主題が繰り返し各楽器のソリやソロを用いて展開されるこの曲の楽譜には、Jのユーフォニアムにも三小節分ソロが書き込まれている。城戸は大川の振る指揮棒の切っ先を目で追いながらも、練習番号Eが近づいてくるにつれ、段々と胸が高鳴っていくのを確かに感じていた。Jの吹くユーフォニアムから流れ出してくる、天使の翼のように心を包み込む柔らかく調律のとれた音が城戸は好きでたまらなかった。Jのソロに合わせてピチカート。しかし城戸は、今日この至福ともいえる時間、重苦しくのしかかる解きようのない謎と向き合わねばならなくなったのだった。城戸の感傷やJの精神緊張など全て暴いてしまいそうな、溢れる残暑の光が音楽室の大型の窓から少年たちを突き刺していた。  Jが一番高いEの音を外した。突如発生したその事実に、大川は演奏を止めるタイミングを逃して眼鏡越しに一瞬で当惑が刻まれた目を見開いていた。本来であれば一度止めて、Jに再度ソロだけを再度演奏するよう要求するところであるが、大川も予想していなかった事態に、即行動に移すことができなかったのだ。指揮者(コンダクター)を始点とした動揺はみるみるうちに全体に伝播した。徐々に統率が取れなくなっていき、ほどよい緊張感と音楽への熱情を以て造り上げられていた演奏をなんとか維持しようという努力も空しく逸走し始めたので、大川はさほどズレてもいない眼鏡の鼻当てを直しながら、譜面台を指揮棒で数回性急に叩いた。  「おいどうした、何かバラバラだな。集中していくぞ」  大川が練習番号を指示し、城戸は小さく息をつきながら譜面を確認する。……と合わせて、自身の内から発せられている警告を無視して、城戸は大川に向かって左側を取り囲む、白鳥の群舞のように強固な統率を誇るフルートパートの一団(団という人数でもないが)を見やった。ファースト・フルート担当で、木管のセクションリーダーも務める一学年上級生の麻野は、その白鳥たちの中でも一際秀でた、オデットたり得る資質をL吹にあって示し続ける輝かしい少年である。麻野は何か大川に物申したいのをぐっと堪えているような険しい表情で、膝に立てたフルートを握っている。
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