1・毒親からの電話「お姉ちゃんが死んじゃった」

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1・毒親からの電話「お姉ちゃんが死んじゃった」

   「与田さん、お母さまから3番にお電話が入っています」  天井のスピーカーから外線の呼び出し音声が響き、私は溜息を吐いてニトリルの手袋を脱いだ。電話が終わったら、再びアルコール消毒して着け直さなくてはいけない。集中していた仕事を中断されたことに、私は少々いらついていた。  私は与田絵梨(よだえり)、34歳。健康食品や化粧品のオリジナル原料を開発する企業で、研究部に所属している。仕事がらクリーンルームでの実験や検査が多く、今日もサンプルの遊離アミノ酸値を計測していたところだった。  この部屋には私物の持ち込み禁止なので、スマホはロッカーに入れてある。そのため、母は応答しない私にしびれを切らして、会社の代表番号に電話をかけてきたようだ。  壁に埋め込まれている受話器を取り、パネルの点滅ボタンを押す。仕事の時間内には、あれほど電話してくるなと言っておいたのに。うちの母親は、いわゆる「毒親」の類で、私には興味がないくせに、都合のいいときだけ擦り寄ってくる。  どうせこの電話も、親戚とケンカしたとか小遣いが足りないとか、くだらない用事に違いない。社会でちゃんと働いた経験がないので、仕事をしている娘への配慮より自分の欲求の方を優先させるのだ。そう思うとついつい口調がぶっきらぼうになる。 「はい、与田で──」  言い終わらないうちに、母のうわずった声が耳に飛び込んで来た。 「絵梨ちゃん? 大変なの、どうしよう!」 「何が大変なの、用件を先に言ってちょうだい」 「あのね、お姉ちゃんが、絢華ちゃんが死んじゃったの!」 「はあ、死んだ?」  周囲にいたスタッフがぎょっとしている。私は慌てて声を顰め、母に「かけ直す」と伝えて電話を切った。振り向くと主任が、早く行けというようにドアを指差している。私はお言葉に甘えて、ロッカールームへと急いだ。  聞き間違いでなければ、さっき母は「姉が死んだ」と言った。もう何年も会っていないが、私には7歳違いの姉がいる。まだ41歳だ、ちょっと死ぬには早すぎる。  それから2時間後、私は姉の居住地にある警察署にいた。結論から言うと、姉はやはり死んでいた。しかも変死らしい。遺族から事情聴取をしたいということで、私と母がそれぞれ刑事さんと話をした。父は亡くなっているため、近しい身内は私たち二人だけである。しかし、姉について私が知っていることは、あまりにわずかだ。  姉の名前は山下絢華(やましたあやか)。私立の女子大を卒業後、商社で一年ちょっと働いて、歯科医と結婚した。しかし、姉の浮気と散財で離婚。確か彼女が30歳くらいの時だったはずだ。当時、私はすでに実家を出ていたので、このあたりのことはあまり詳しく知らない。 「普段は、連絡することもなかったんです」 「だけど、たった二人の姉妹だったのでしょう?」  刑事さんにそう言われると、やましいことがなくてもドキドキしてしまう。私と姉は年が離れていたこともあり、一緒に遊ぶことはなかった。さらには、私が高2の時に向こうが嫁いでしまったため、大人になってからもたまに実家で顔を見かける程度だった。 「まあ、仲が良かったかと聞かれれば、正直そんなに良くなかったと思います」 「そうですか、では最近の交友関係についてはご存じないですね」  私が頷くと、刑事さんは気の毒そうな顔で、姉がどのように死んだのかを教えてくれた。アパートの階段下に倒れていたので、最初は転落死だと思われたが、実はどうやらそれだけではなかったらしい。 「検視の結果、急性薬物中毒の疑いが濃厚です。犯罪に関与している可能性もあるため、ご遺族の同意が得られなくても、裁判所の許可で司法解剖が行われます。その点を何卒ご理解ください」  くらくらする頭を抱えて廊下へ出ると、別室で事情聴取を終えて待っていた母が飛びついてきた。既にさんざん泣いたようで、化粧が剥がれて白地の迷彩みたいになっている。 「恥ずかしいわ、ご近所さんや親戚に顔向けできない。どうしたらいいの」  娘が死んだ哀しみよりも、世間体の方が母にとっては重大事項らしい。自分が蝶よ花よと甘やかした結果、こうなったんだろうに。毒親にもいろいろあるが、うちの母は過剰な期待を子に背負わせるタイプだ。子どもが自分の夢をかなえてくれると愚かにも信じている。だからそれがかなわないと、裏切られた被害者になってしまうのだ。  ここしばらく姉がどういう暮らしをしていたのか、私は刑事さんから聞いて初めて知った。雑居ビルの小さなクラブでホステスをしていたようだ。母はそれを知っていたが私に隠していた。プライドだけは高いので、かつて自慢だった娘が水商売をしていることを、認めたくなかったのだと推測する。 「取りあえず、帰って話をしましょう。しばらくは葬式も出せないんだから」  警察署の廊下で大泣きする母を宥め、私はエントランスへと歩き出した。姉の遺体は解剖の結果が出るまで、警察に預けられたままになる。さらには死体検案書が出ても、住んでいたアパートや持ち物、交友関係などについて捜査が行われるため、しばらくは落ち着かない日が続くに違いない。 「まさか、この年になって指紋を取られるなんて。あの子はなんて親不孝なの。葬式なんて出さないわよ、何で死んだのかって聞かれるじゃない」  私も母も、姉の身の周りの捜査のため指紋を提出した。確かに気分が良いものではないが、こればかりは仕方がない。しかしそれよりも、調べが終わるまでのアパートの家賃や、恐らくどこかから借りているだろう借金の返済、その他あれこれの後始末の方が大変だ。それを考えると、目の前が暗くなる気がした。死ぬのは勝手だが、なんで普通に死んでくれなかったのか。  どうせ母は、「可哀そうな私」モードに入るだろうから、こっちに丸投げしてくるに決まっている。高校は寮生活、大学入学と同時に一人暮らしを始め、鬱陶しい母親を遠ざけてきたのに、姉のお陰でヒステリーに付き合わされると思うと、うんざりしてしまう。  しかし、そういう私も姉の死を全く悲しんではいない。単に接点がなかっただけではなく、私は姉を避けていた。有体に言えば、大嫌いだったのだ。腹の底は真っ黒なくせに、きれいな顔で大人しそうに微笑んで、器量の良くない私を憐れんでいた姉。  でも今はこうして私が、惨めに死んだ彼女を憐れむ立場だ。きっと私も母や姉と同じように、性悪の血が流れているのだろう。  警察署の玄関ホールまで来たとき、バッグの中で私のスマホが鳴った。着信画面を見ると「昌司(まさし)」と表示されている。私の夫だ。ここへ来る前に取り急ぎ「姉が亡くなったので警察へ行く」という旨の報告を入れたままだったので、心配していたと思われる。 「絵梨ちゃん、今どこ」 「警察署を出るところだよ」 「ちょうどよかった。近くまで来てるから少し待ってて」  時刻は午後3時すぎ。会社を早退して、車で迎えに来てくれたらしい。夫は至って平凡なサラリーマンだが、こういう細やかな気遣いのできる人だ。私たちは共通の友人を通じて知り合い、5年前に結婚した。  彼は私より2歳年下で、製薬会社のMR(メディカル・レプリゼンタティブ)をしている。いわゆる医薬情報担当、病院を訪問して医師に薬の説明をする営業職だ。私が原料開発、彼が製薬と、少し業界がかぶっているので、仕事を理解し合えるところも有難い。私の年齢的にそろそろ子どもが欲しいが、それは成り行きに任せて二人暮らしを楽しんでいる。  それなのに、さっきまで泣きわめいていた母が昌司の車に乗った途端、もう何度も断っている同居の話を持ち出してきた。姉が突然死んだことで気弱になったのだろうが、私も昌司も「またか」という顔になった。 「こんなことになって不安だわ。あなたたちも、子どもができたら仕事と育児の両立が大変でしょう? これを機会に、うちに引越しなさいよ」  後部座席から、私たちのシートの隙間に身を乗り出すようにしてしゃべり続ける母を、私はきっぱりと跳ね退けた。 「あの家は私たちどちらも通勤が不便だし、子育てのサポートはプロに頼むからご心配なく。それに、昌司は長男なのよ。妻の実家にマスオさんなんて、与田のお義母さんに恨まれてしまうわ」  実のところ、私は長男だろうが次男だろうがどうでもいいのだが、母の世代にはその呪文が良く効く。母はむくれっ面でシートにふんぞり返り、バックミラーを睨みつけた。  母は別に、娘と暮らしたいわけではない。我が子から大切にされている自分を、世間にアピールしたいのが主な理由で、さらには小遣いをくれたり、愚痴を聞いてくれる相手が欲しいのだ。そして、あわよくば老朽化した家をリフォームさせようと考えている。  残念だが、その手には乗らない。さんざん姉と差別され、ネグレクトされてきた私には、形だけの母を愛する理由など何ひとつないのだから。
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