2・見た目「だけ」は女優レベル、山下絢華という女

1/1
74人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

2・見た目「だけ」は女優レベル、山下絢華という女

   姉の死亡時刻は、深夜1時ごろだったそうだ。外で大きな音がしたのをアパートの住民が聞いていたが、時間が遅かったので様子を見に行った者はおらず、朝になって出勤しようとした会社員が、階段下に倒れている姉を発見した。  それからすぐに救急車が呼ばれたが、到着したときにはすでに心肺停止だったらしい。酒の匂いがしたため、当初は酔って階段を踏み外したのだと思われた。しかし、検視の際に特徴的な紅斑や水疱が見られたことから、薬物の中毒が疑われた。  姉は性根が歪んでいるのと同時に、したたかで図太い女でもあったので、薬物に依存していたことが少し意外だった。しかし、それ以上に驚いたのが容貌の変化である。安置室で遺体を確認した際、一瞬これは人違いなのではないかと思ったほど、姉の顔立ちは変わっていた。  事故死なので多少の腫れや変形があるにせよ、私が知っている顔とは違う。もちろん、よく見れば本人であることに間違いはないが、相当あちこち美容整形を施していたようだ。 「ねえ、お姉ちゃんの顔のこと、知ってたんでしょ」  車の中で母に尋ねてみた。返事が返ってこない。寝たふりをしているのだ。答えたくないとき、母はたいてい無視を決め込む。  母は姉の美しい顔が自慢だった。姉の顔立ちは色白で目がぱっちり。長いまつ毛とすらりとした鼻筋。ふっくら女性らしい唇は、何も塗らないのにしっとり紅い。親戚のおばさん連中からは「まるでお人形さんのよう」と言われていた。要するに誰にでもわかりやすい「きれい」な顔である。  ちなみに身長は158㎝で、華奢なお姫さま体型だった。ただしこれは、歌劇団の女役でギリギリ合格ラインと言われる数字を公表サイズにしていただけで、実際はおそらく155㎝前後だったと推測する。  それでも顔が小さく等身のバランスが良いので、スチールの少女モデルなら十分に通用した。むしろ「守ってあげたい」「儚げな美人」として男ウケが抜群に良かった。168㎝骨太の私は「なぜ姉に似ていないのか」と、常にからかわれて辛い思いをしたものだ。そういう点でも私は姉が鬱陶しかった。私にないものを彼女は全て持っていたからだ。  姉は生まれたときから近所で評判になるほど美しい赤ちゃんで、小学校に上がった直後に東京のモデル事務所からお声がかかった。それで調子づいた母はステージママに目覚め、娘をスターにする夢に取り憑かれてしまったのだ。  これは、母の若き日の無念が大きく影響している。姉の美貌は母ゆずりで、若い頃は母本人も女優を目指していたそうだ。しかし、厳格な家の娘だったので芸能界入りなど許されず、兄の友人であった父との縁談を強引にすすめられ、渋々結婚した。それをずっと悔やんでいるらしい。 「歌劇団で、スターになるのが夢だったの。きっと絢華ちゃんは、その夢をかなえてくれるわよね。こんなにきれいなんだもの」  絢華という名前も、ぱっちり二重まぶたで生まれてきた娘を見て「この子は絶対に(自分に似て)美人になる!」と確信し、ゴージャスなネーミングにしたのだそうだ。その期待に応えて、姉は小学生からジュニアモデルとして活躍し、地元企業のテレビCMにも出演した。  また、母は姉に歌劇団に付属する音楽学校を受験させるべく、バレエにピアノ、日本舞踊など、あらゆるレッスンに金をつぎ込み、未来のスターを育てようと躍起になった。もっとも、姉本人はあまり芸事には熱心ではなかったようで、後でわかったことだが、レッスンをさぼることもよくあったようだ。そのため、音楽学校の受験には悉く失敗している。  私に言わせれば、己を磨きぬいた全国の精鋭1000人の中から40人ほどしか選ばれない狭き門なのに、なぜピルエットでグラグラするポンコツが合格できると思っていたのか、全くもって謎である。  それでも、姉が飛び抜けて美しいことは紛れもない事実であり、ルックスは彼女の最大の武器であった。誕生日やホワイトデーには、家の花瓶が足りなくなるくらいの花束が届いたし、高校時代は姉を崇拝する男子学生による、送り迎えが行われていたほどだ。  一方、私は父にそっくりである。はれぼったい一重まぶたに、濃い眉毛。どこかの県のゆるキャラに似ていると言われたことがある。私が生まれた瞬間、母はさぞや落胆したに違いない。跡取りの長男を熱望していたのに、生まれてきたのは父に瓜二つのゆるキャラ娘である。  しかし、赤ん坊はそのうち顔が変わる。きっと成長にともない姉のように美形になるだろうと期待をこめて、母は私に「絵梨」というガーリーな名前をつけた。それなのに、私は母を満足させる容姿には育たなかった。  さらに間の悪いことに、私が生まれたのはちょうど姉がジュニアモデルとして活動し始めた時期だった。母は乳飲み子の私を祖母に預けて姉のマネージメントに奔走し、物心ついた後も構ってくれることは殆どなかった。  それどころか、姉の習いごとにお金をかけすぎて、私の服はお下がりばかり。幼稚園の年長さんになって「ピアノを習いたい」と言ったときも、「あんたは我慢しなさい」と叱られた。今思えば、ひどい差別である。  小学生になってからは、もはや諦めの境地だったが、誕生日にプレゼントもケーキもなく、台所のテーブルに500円玉が置いてあったときには、虚しくて泣いてしまった。  父だけはそんな私を不憫に思い、何かと気を使ってくれたが、仕事が忙しく家にいる時間が短いため、たまに外食に連れ出してくれたり、好きな服を買ってくれるのがせいぜいだった。 「お前はそれでも母親なのか、絵梨が可哀相だろ!」 「絢華ちゃんはいま大切なときなのよ、あの子はスターになるんだから、家族が応援するのは当たり前でしょう!」  両親の言い争う声を、夜中に何度も聞いた。それが嫌で、私はそのうち祖母の家から学校へ通うようになった。幸い隣駅だったので、学校からは家庭の都合による越境通学が認められた。  子供の足では学校まで30分もかかるが、それでも私は嬉しかった。母や姉のいない世界が、これほど安らげるものかと感動したし、それまでいじけて引っ込み思案だった性格も明るくなった。  当時、私は8歳か9歳。そんな小さな女の子が、実の親にネグレクトされて傷つかないはずがない。もしもその頃の自分に会えたなら、よく頑張ったねと抱きしめてあげたい。そういう暗い記憶も、私が姉を嫌悪する理由の一つである。  もちろん、コンプレックスから来る妬みや嫉みもある。同じ親から生まれた姉妹なのに、どうして私だけが不美人なのかと、思春期のころは神様の不公平を呪ったものだ。  それでも大人になり、こんな私を好きだと言ってくれる彼氏もでき、ようやく「私らしい個性に溢れた顔だ」と自分を愛せるようになった。ところが母は、そうではなかった。  祖母から「たまには家族と過ごしなさい」と言われて実家に帰るたび、相変わらず冴えない容姿だと嘆かれる。実の娘でありながら、いや、実の娘だからこそ私は彼女の汚点なのだ。その分、母は姉を盲目的に甘やかした。そんなある日、決定的な出来事があった。私はその時のショックを今でも忘れない。 「わー、可愛い。絵梨ちゃん、いいなぁ」  祖母の家から実家に帰っていたある日、姉が珍しく私の鞄についていたマスコットを褒めた。本人は単純に「かわいいね」という意味で言ったのだと思う。しかし母は「いいなぁ」の部分に反応してしまった。 「絵梨ちゃん、それ絢華ちゃんにあげなさい」 「えっ、いやだよ。これテストで95点だったから、お婆ちゃんが買ってくれたやつだもん」  私の拒絶など聞こえていないかのように、母が私の鞄を奪い取った。大事なマスコットがむんずと捕まれ、私は必死に奪い返そうとしたが、母は眦を吊り上げた。 「妹なんだから、お姉ちゃんが欲しいものは譲らなきゃ!」  道理が破綻しているが、子どもが論破できるわけもなく、哀れなマスコットは取り外された。そして母はそれを姉の手に握らせると、鞄だけを私に押しつけて言ったのだ。 「またテスト頑張って、買ってもらいなさい」  姉はそんな目の前のやり取りを眺めながら、表情のない顔で黙っていた。手には私の大事なマスコットが握られているが、目を向けもしない。最初から大して興味などなかったのだろう。その光景を思い出すたび、私の胸中に絶望がこみ上げてくる。  そんな不愉快な出来事を反芻していたら、後部座席からぼそぼそと声がした。 「そのままの方が美人だって、何度も言ったんだけど、絢華ちゃんったら聞かなかったのよ」  なんだ、やはり起きているではないか。姉が整形手術を繰り返したのも、姉を容姿に縋って生きるしかない人間に育てた自分の責任だろうに、まるで関係ないような口ぶりである。聞いているだけで吐き気を催す。  無責任で、自分勝手で、何でも人のせいにする、私にとって最悪の毒親なのに、完全に縁を切れないまま繋がっている。それは私がどこかでまだ彼女に「親」を求めているからなのかもしれない。愛されていないことなど、わかり切っているはずなのに。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!