1・王子様は白馬ではなく、満員電車に乗っていた

1/1

74人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ

1・王子様は白馬ではなく、満員電車に乗っていた

※性被害を受けるシーンが出て来ます。苦手な方はご注意ください。 1998年9月11日(金曜日)  改札に定期券を通した時には、すでに乗るべき電車はホームを離れた後であった。絢華はようやく履きなれてきたローファーでのろのろと階段を上がり、人々が過ぎ去ったホームのベンチに腰かけた。  座る前に、座面の汚れをしっかり確認する。絢華の通う私立高校の夏服は、薄いグレーのプリーツスカートなので汚れやすいのだ。ちなみに上は白の丸襟ブラウスで、学年ごとに襟元のリボンの色が異なる。絢華たち一年生は、えんじ色だ。この制服を見れば「ああ、あのお嬢さま学校」と言われるほど、周囲の景色からは浮いている。 「せっかくブローしたのに」  額の汗をタオルハンカチで拭いながら、絢華は心の中で舌打ちをした。9月に入ったとはいえ連日30度を超える猛暑で、前髪のカールがたちまち崩れてしまう。それでも女子高生にとって髪型は命だ。絢華の高校は規則が厳しく、肩より長い髪は二つに結ばないといけないため、スタイリングは前髪が決め手となる。  今ならアイロンで楽にセットできるが、当時はロールブラシやカーラーが主流だった。絢華も毎日6時に起きて、ミストで湿らせた髪をストレートにブローし、オイルで艶々に仕上げた後、学校指定の黒ゴムで縛っている。  この時、ゴムをねじると跡がつきにくくなるのは、モデル事務所のヘアメイクさんに教えてもらった裏技だ。その後、わずかに額から浮く程度のゆるいカールを前髪につけていく。美容院で中央が薄くなるようカットしてもらったので、清純であざといアイドル前髪が作りやすい。  もちろん化粧もする。ただしギャル系の派手なメイクではなく、すっぴんを格上げする隠し化粧だ。昔は稀少だったトーンアップ下地とルーセントのパウダーで透明感を出し、まつ毛の隙間に薄いアッシュブラウンで影ラインを描く。控えめにビューラーをかけて、透明マスカラ。最後に赤のグロスを指の腹で唇にすり込んでティッシュオフを2回。上からワセリンをなじませれば、まるで天然の血色のようにみずみずしいリップが完成する。  もともと抜きん出た美貌の絢華がこの仕込みを行うと、戦闘力がJK最大レベルまで爆上がりする。お嬢さま学校なので本来は校則違反だが、テクニックが半端ないため生活指導の教師でも見抜けない。母親も「絢華ちゃんが可愛くなるなら」と黙認していた。  絢華の美容術は、どれもモデルの仕事で学んだプロ直伝の技だが、この手の情報を絢華はクラスメイトにぜったい教えない。自分だけがこっそり可愛くならねば意味がないのだ。チートばんざい、女の子は見た目でカーストが決まる。それが絢華の考え方であった。  こうして毎朝長い時間を身支度に費やし、朝食もそこそこに家を飛び出ていくのが絢華のルーティンである。隣町の普通高校であれば、今より30分遅く家を出ても間に合うのだが、母が選んだ高校は片道1時間もかかる場所にあった。しかも駅から校門までは坂道で、その道を3年間も登り降りするのかと思うと、絢華は登校拒否になりそうだった。 「絢華ちゃん、なるべく早い電車に乗りなさい。その方が混んでないから安心だわ」  母親がうるさく言うので、一学期のうちは早めの電車で通学していたが、夏休みで気が抜けて、生来が怠惰な絢華はだんだん家を出るのが遅くなった。今では最初の頃より15分も遅い電車に乗っている。  もちろん、それでも授業開始には間に合うが、その時間帯は混みようが半端ないのである。早い電車なら、運のいい日には座れることもあった。しかし数本遅らせただけで、立錐の余地もないほどの超満員になる。そんな電車の中で、悲劇は起きた。  電車が来たので絢華はベンチから立ち上がり、胸元を鞄でガードしてドアの近くに乗り込んだ。吊革につかまっているとじろじろ見られるし、ひどい時は盗撮されることがあるので、ドアや壁に向かっている方が安心する。美人には美人なりの苦労があるのだ。  なお、その頃はまだカメラ付き携帯電話は普及していなかった。懐かしのレンズ付きフィルムや、大胆な変態野郎になるとバッグに一眼レフをしのばせて盗撮をしていた時代だ。中には、それをプリントして美少女系の雑誌に投稿する者もいた。絢華も過去に盗撮された写真が雑誌に掲載され、モデル事務所が編集部にクレームを入れたことがある。  そういう理由で、その日も絢華はドアに向かって立っていた。しかし発車してしばらく経つと、尻の辺りに妙な違和感を覚えた。何かが尻から太腿にかけて、這いまわるような感覚だ。  それが人間の手であると確信するまで、数秒。満員電車に痴漢が出没することは知っていたし、学校でも用心するように言われていた。しかし、どこか遠いところの出来事のような認識で、絢華はすっかり油断していた。  そのため、いざ自分が実際ターゲットにされてみると、多くの女性がそうであるように、急激なパニックになってしまった。声を出して助けを求めればいいのだが、もしや自分の思い過ごしではという躊躇いと、辱められた事実を知られる羞恥心。そして本能的な恐怖が絢華の脳内でごちゃまぜになり、喘ぎながら身を堅くするしかなかった。  様子がおかしいことに、きっと何人かは気づいていた。さっきから無遠慮に絢華を眺めていた、サラリーマンや学生たち。彼らは異変を察知するや、明後日の方向を向いて知らんぷりを決め込んだ。  周囲に女性がいないかと目線を動かしてみたが、運の悪いことにこの日に限って、声が届く範囲は男性ばかりである。その中の、絢華の背後に立っている男が、恐らくは痴漢である。生臭い息が後頭部にかかり、絢華は鳥肌が立つ思いだった。  後に男を喰い散らかす絢華だが、この時は16歳でまだ男性経験もなく、ただ蹂躙されるままであった。今までにも名前を聞かれたり、手紙を渡されたり、後をついて来られたりすることはあった。しかし、それとこれとは全く違う。痴漢は女性の尊厳を踏みつけにする、極めて卑劣な暴力である。  こんなことなら、化粧なんてせずに地味で目立たない恰好をしていればよかった。母の言う通り、早い電車に乗ればよかった。恐怖と後悔が入り混じり、とうとう絢華の眦から涙がこぼれたその時、斜め後ろから若い男性の声がした。 「おはよう」  何のことはない、朝の挨拶がこれほど心強かったことがあっただろうか。絢華は直感的にその声が、自分を助けてくれるものだと察知した。振り向くとそこには声の主がいた。絢華の高校のとなり駅にある、県立高校の制服を着ている。  満員電車の人ごみをかきわけて来てくれたのだろう、やや長めの前髪からのぞく額にうっすらと汗をかいている。彼は人好きのする笑顔を浮かべて、絢華に話しかけてきた。 「この電車だったんだね。今日の一時間目の小テスト、予習してきた?」  絢華の制服が有名な女子校のものであることは一目瞭然で、その男子生徒がクラスメイトであるはずもないのだが、痴漢野郎は瞬時に手を止め背後から離れていった。賤しい犯罪をする奴に限って、肝っ玉が小さいのだ。絢華は全身から、どっと汗が噴き出すのを感じた。緊張が解けた安堵の汗だ。 「ごめんね、急に声かけて。なんだか困ってるみたいだったから」  男子生徒は周囲を見渡し、痴漢が去ったのを確認すると、小さな声で先ほどの行動の弁明をした。身長は170㎝くらいだろうか。顔立ちは平凡で美男子には程遠かったが、少し長いうさぎのような前歯と、やや色の薄いやわらかそうな髪が印象的だった。 「あの、ありがとう……ございました」  そう言うのが精いっぱいだった。助けてもらった時の作法など、習ったことがない。ありがたいと思う一方で、「これをきっかけに友だちになろう」と迫られたら断りづらいなという不安が頭の片隅に浮かんだが、その男子生徒は「どういたしまして」と笑って、あっさりその場から離れていった。  やがて電車がいくつか駅を過ぎ、絢華の降りる一つ前の駅で彼が降りていった。ドアの前にいる絢華に気づいていたはずだが、まるで何事もなかったかのように、一瞥もせず改札へ向かう後ろ姿が、動き始めた車窓から見えた。  これまで出会った同年代の男子は、絢華を見れば必ず何らかの反応を示してきた。中学までは母親が交友関係にうるさかったし、モデル事務所も男女交際は禁止だったので、あまり男子と親しく喋ったことはないが、絢華は彼に特別な何かを感じてならなかった。そのときの出来事を、絢華は日記にこう書いている。 ──あんなひどい経験は初めてだった怖くて怖くて涙が出てそのときに彼が助けてくれた王子様って本当にいるんだなと思ったきっと神様が私のために彼にめぐり合わせてくれたのだそれにしても痴漢の親父死んでしまえ手も■■■も腐ってしまえ死ね(原文ママ)
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

74人が本棚に入れています
本棚に追加