2・絢華の妄想劇場「この世の男は全て私のモノ」

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2・絢華の妄想劇場「この世の男は全て私のモノ」

 1998年9月24日(木曜日)  さすがの絢華も懲りたようで、あの痴漢の一件からは早めの電車に乗るようになった。乗車位置も、なるべく周囲から見えやすい吊革の中央あたり。隣が女性であれば、なお良い。そのおかげで、それ以来は不愉快な出来事には遭遇していない。  しかし、絢華の内心は苛立っていた。初めは何でイライラするのか自分でもわからなかったが、そのうち原因が例の男子高校生であることに気づいた。  ──彼はなぜ、自分に接触して来ようとしないのか。  傍から見ればひどい自惚れであるが、当時の絢華は「全ての男は自分に好意を持つ」と信じて疑わなかった。実際、中学校のクラスメイトも思春期なりの照れはあるものの、皆どうにかして絢華に近づこうと機会をうかがっていた。  お陰で、一部の女子から嫌がらせをされることもあったが、男の子たちが束になって守ってくれたので、儚げな悲劇のヒロインになりきることができた。これは、お姫様願望の強い絢華にとっては、何とも言えない快感であった。そして、この優越感が彼女を増長させ、ちやほやされないと気がすまない体質を育てたのである。  それがどうだ。女子高は当たり前だが女ばかり。みんな表面的にはお淑やかな令嬢を装っているが、水面下では常に腹の探り合いで、その中でも絢華を貶めようとする一部の連中が厄介だった。  何しろ、幼稚舎からエスカレーター式のお嬢様学校である。受験に失敗して高校から入ってきた絢華のような生徒は、本来なら格下に扱われる存在だ。しかしながら、絢華は容姿端麗でモデルとしても活躍しているため、入学早々注目を集めた。それが、マウントを取りたい人間にとっては気に食わない。「調子に乗るな」と、釘を刺しておかねばならない標的になってしまったのだ。 「山下さんは、夏休みどこに行くの?」  夏休み前、同じクラスの魚住エリカが絢華に聞いてきた。別に絢華の予定に興味があるわけではない。どこにも行かないと知った上で聞いているのだ。絢華は「またか」とうんざりしながらも、ふんわりと物静かな微笑を浮かべた。 「特に予定はないのよ。習いごとが多いから、普段とあまり変わらないかも」  すると、エリカが獲物を捕らえた猫のように、目を光らせてにやりと口元を歪める。 「ええ、可哀そう。じゃあ、スイスのお土産を買ってきてあげるね」  最初から、それを自慢したかったのだろう。エリカの家は「魚住エステート」という不動産の管理会社をしており、10年ほど前のバブル景気に乗って大きく成長した。祖父の代まではアパート経営をしていたが、地上げ屋に土地を売った金で管理業界に進出したらしい。言葉は悪いが、いわゆる「成金」である。  この手のマウント女は、モデル事務所にも多くいる。大抵はちょっと売れて天狗になっている駆け出しだ。ランクの高いモデルはプライドを持っているので、自己研鑽に集中して他を貶めたりはしない。  女学校も同じだ。意地悪をして優越感に浸っているのは、エリカのような躾のなっていない令嬢もどきで、何代も前から富裕層として暮らしてきた本物の令嬢は、どんなに腹黒い本心があろうとも、表面上は慎ましやかである。  こういう阿呆に対しては、挑発に乗っても無視してもいけない。のらくらと、微笑んでやり過ごすのがいちばんなのだ。しかし、絢華の返事を待たずして、エリカの取り巻きの一人が話に割り込んできた。エリカに加勢するつもりらしい。 「エリカちゃん、スイスなの? いいなあ、私なんて国内よ」 「石垣島だったっけ。いいじゃない、私も久しぶりにクルージングしたいな」 「自家用クルーザーがあるんでしょ、さすが魚住家はすごいなぁ」 「パパの趣味なのよ。山下さんもそのうち、暇ができたらご一緒しましょ。船上パーティー、楽しいわよ」  お前のような庶民には縁がないだろう、と言いたいらしい。絢華の父も決して低所得ではなく、むしろ有名企業の次長に就く出世組である。しかし所詮はサラリーマンであり、エリカの認識では被支配層にカテゴライズされるようだ。  絢華は「ありがとう、素敵ね」とだけ言って、笑みを返した。そんな低次元の嫌がらせを、彼女たちは事あるごとに仕掛けてくる。それっぽっちの攻撃でへこたれる絢華ではないが、「そのうち地獄を見せてやる」と日記には記されていた。  そんな憂鬱な高校生活の中で、絢華にとって唯一心に清涼な風が吹く出来事が、例の男子生徒との出会いだった。あの直後は、痴漢のショックが大きくそれどころではなかったが、日が経つにつれて彼のことが気になり始め、ついに頭から離れなくなってしまった。  そして同時に、彼がどうして自分に連絡を取ろうとしないのか、不思議に思えてきた。制服を見れば隣駅の女子校というのは一目瞭然だし、同じ路線で通学しているのだから、車内を探せば良いことだ。恥ずかしいのか、忙しいのか。それとも、何か特別な事情があるのか。  自己肯定感が異様に高い絢華の頭の中には「彼は自分に興味がない」、という選択肢はなかった。そのため、ますます彼への意識は強くなっていった。  とうとう焦れた絢華が行動を起こしたのは、それから数日後。絢華は週5回の習い事があるため、平日で放課後が自由になるのは水曜日だけである。その水曜日の5時間目、頭が痛いと嘘をついて早退し、隣駅の公立高校へやってきた。  念入りに化粧と髪を整え、鞄の中には小さなクッキーとハンカチの入った紙袋をしのばせている。「先日のお礼をしたかった」と言えば、いきなりの訪問でも不審に思われないはずだ。  絢華は常々、女は積極的になるべきではないと考えていた。男を追いかけ回す同級生たちはたいてい、軽くあしらわれて本命になれずにいる。それどころか下手すれば、便利な使い捨てにされる可能性さえあるのだ。それは高嶺の花であり続けたい絢華にとって、何としても避けねばならないことであった。そのため、今日はさらっとお礼を言うだけに留めるつもりである。  きっと彼は絢華が出向いてくれたことに感動し、改めてその完璧な美貌の虜になるだろう。そしてお礼の品に添えられた便箋から山下絢華という名前を知り、すぐさま女子高へ来て彼女の姿を探すはずだ。あまりに自分に都合のいい妄想であるが、絢華の頭の中ではその流れは決定事項であった。  さらに、彼はきっと絢華に「友だちになって欲しい」と申し出るはずである。その時は困った顔をして、「男女交際は校則で禁止されている」と俯く。そして彼がしょんぼりしたところで「電車の中で、また会えたらいいですね」と微笑んでその場を立ち去るのだ。翌朝、満員電車の中で絢華を探し回る彼の姿が、絢華には目に浮かぶようであった。  とは言え、絢華はこの時点では彼に好意を持っているわけではなかった。ただ、自分に振り向かない男がいる事実を受け入れられなかったのである。自分を取り巻く全ての男は、自分を向いていなければならない。それが絢華の世界であった。物静かな美しい仮面の下で、絢華はとんでもない勘違いを暴走させていた。  そう考えているうちに終業のチャイムが鳴り、しばらくすると生徒たちが続々と校門から出てきた。公立高校は中間テスト前なので部活もない。きっと目当ての彼もそのうち見つかるはずだ。  生徒たちがお嬢さま学校の制服を着た美少女を、ちらちらと見ながら通り過ぎる。中には勇敢に声をかけてくる男子もいたが、絢華はいつものように「人を待っているので」と、ふんわり微笑んでやり過ごした。王子登場に相応しい舞台がいよいよ出来上がったところで、うっすらと記憶にある姿が絢華の目に飛び込んできた。  ──彼だ。  絢華の心臓が、ぴくりと小さく跳ねた。一度しか会っていないが、さらりとした色素の薄い髪は記憶に残っている。数人の友人と笑いながら歩いてくる彼の口元から、うさぎのような前歯がのぞいた。間違いない、あの時の彼だ。  絢華はゆっくりと校門の鉄柵の前に進み出た。すると、あと10mほどのところで彼が絢華の方を見て、じっと視線を合わせている。そしてしばらくポカンとした表情をしていたが、相手が誰かわかったのだろう。瞬時に破顔し、駆け寄ってきた。  ここまでは概ね妄想の通りだ。絢華は淑やかにお辞儀をして、上目遣いに顔を上げた。公立高校の生徒には目に眩しい、深窓のご令嬢を全身で演じているのだ。モデル事務所から送り込まれた演技のレッスンでは「大根」と言われた絢華だが、実生活での芝居は悪魔的に巧みであった。 「こんにちは、電車の中で会った人ですよね」 「私を覚えていてくれたんですね」 「もちろん! こんな美人を忘れるわけないよ」  その言葉を聞いて、不覚にも絢華はときめいてしまった。10代の男など、照れてそっけない物言いになりがちなのに、この男は歯の浮くようなセリフをさらっと言える、無自覚の人たらしであった。不意打ちに戸惑いつつも絢華は何とか表情を保ち、ここへ来た理由を述べようとした、その時──。 「あの、今日ここへ来たのは……」 「圭ちゃん、何してんの!」  彼の後からやってきた女子生徒の声が、絢華の声をかき消した。会話が中断されたことはもちろんだが、絢華はその少女が取った行いに強烈な不快感を覚えた。にこにこしながら彼女は、彼の腕に自分の腕を絡ませたのだ。
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