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thursday_evening
チーズの盛り合わせ、生チョコ。なみこは常連客の顔を思い浮かべながら、酒のつまみを皿に盛りつけ、冷蔵庫にしまった。
バー・アミーカの開店まであと三十分。コーヒーでも淹れて一服しようかとしたところで、店のドアが開いた。優しげな笑みを浮かべながら「いいかな?」と顔を覗かせたのは、グレーのジャケットを羽織った、四十手前の男性だった。
「久保田さん、今日は早いんだね」
彼は「暇だったから」と、はにかんだように笑って、店の中に入ってきた。
「新宿行ったら青森物産展やってたから買ってきたよ。なみちゃんへのお土産と、いぶりがっこ。この間誰かが食べたいって言ってたでしょう」
「青柳さん。クリームチーズと一緒に食べたいんだって。どうやって出そうかな?」
「クラッカーに載せても美味しいけど、チーズをいぶりがっこで挟んで一口で食べられるようにするのもいいかもね」
「そうだね、手を汚すの好きじゃない人だから、そっちの方がいいかも」
カウンターの定位置に腰かける前に、彼は紙袋を渡してきた。いぶりがっこが三本も入っている。他の客にも振る舞ってくれということだろう。脇にはアップルパイの箱があった。こちらはなみこへの土産だ。
「そういえば昨日は面白かったな、あの古沢くんていう子」
久保田は言いながら、思い出し笑いをしている。
昨晩バー・アミーカに、この近所のカフェでアルバイトをしている専門学校生が来た。酒の飲み方を知らないのか、ビールやサワーと同じようにウイスキーを呷っていたのだ。
「明け方へろへろだったから、店で吐かれたらどうしようかと思っちゃった」
「なみちゃんが飲ませすぎないように見てるから、それはないでしょ」
後半はノンアルコールを出していた。けれども、色や香りの違いにさえ気づかなかったのだから相当だ。店にいたときはよかったが、帰りはどうなったかわからない。
「学生さんは怖いよね。久保田さんくらいお酒強いと、こっちも何も気にしなくていいんだけど。悪酔いしないし、やっぱりお客さんは大人がいいよね。節度あるから楽」
「年齢は関係ないんじゃないかな、人によって色々だよ。ほら、なみちゃんだって若いけどちゃんとしてるじゃない。落ち着いているというか」
「雇われだけど、一応店長だから。久保田さん、一緒にアップルパイ食べよ?」
なみこは二人分のコーヒーを淹れるためにケトルで湯を沸かす。もらったばかりの土産の箱を開け、アップルパイを取り出した。中央で二つに切る。りんごが丸ごと生地に包まれていた。準備を終えるとカウンターの外に出て、久保田の横に並んで座った。
ナイフで切って一口食べる。甘酸っぱい香りが広がってなみこの心を溶かしていく。
「んー、おいしい。開店前の平和なひとときだね」
「なみちゃんには申し訳ないけど、僕もこの開店前の時間が結構好きなんだよなあ。アミーカはやっぱり、自分の店よりも落ち着くね」
笑い合って、目の前のスイーツを堪能する。
久保田の本業は投資家だが、不動産の他、都内繁華街に複数の飲食店を持つオーナーでもある。酒を飲むのなら自分の経営する店に行くという手もあるはずだが、従業員たちに気を遣わせるからと、普段はほとんど顔を出さずにいるようだ。
店で解決の難しいトラブルがあったときだけ、対処するために駆けつける。それ以外はほとんど顔を出すこともないという。
酒にトラブルはつきものだ。バー・アミーカでほとんどもめ事が起こらないのは、大事になる前に、常連客の誰かが喧嘩や言い争いの仲裁に入ってくれるから、というのもある。
久保田には先日も助けられたばかりだった。客として飲食代を払っているのに、申し訳なくもあったが、彼はそれでいいのだと言う。何をするでも金を払っている方が、余計な気遣いをせずにいられるらしい。
「お土産物だからどうかなと思ったけど、結構おいしかったね」
彼はアップルパイの箱を手に手を伸ばし、改めて眺めている。
「久保田さんって甘いの好きだよね。普段チョコとか注文しないけど」
「やっぱり恥ずかしいなと。僕の世代とは違って、今の男の子はあんまり気にしないみたいだけどね」
「好きなもの食べればいいのに」
なみこは笑いながら、この店に時々来る甘党の青年を思い出していた。
くせのない茶色い髪、淡い色の大きな瞳、子どもっぽいところもあるが、裏表のない明るさに惹かれる。普段あまり出会うことのないタイプだから、気になるのかもしれない。
「そういえばさっき、優月くんと会ったよ」
急に今しがた考えていた人の名前が出てきて、なみこはフォークを取り落としそうになった。落ち着きを払った声で「どこで?」と訊く。
「駅の近くのコンビニ。スイーツ買いに来たんだって。そこにしかないらしい」
「スイーツって」
「二十六だっけ? 今の子は、恥ずかしげもなく言えるのが良いよね。僕が優月くんの歳の頃には言えなかったなあと」
「さっき言ってた、男だからっていうやつ?」
「そうそう。今の子たちを見ていると、僕もあんな風に、自分の好きなものを恥ずかしがったりせず、誰かに言ってもいいのかなと思ったよ」
「昭和の男は見栄を張ったって、いうものね」なみこがからかうと、
「今は僕も丸くなったけど、二十代の頃は色々と大変だったからなあ」久保田は苦笑した。
「え、聞きたい」
それが今の肝が据わったあの対応に繋がっているのかもしれないと思うと、俄然興味が湧いてきたのだが、大した話じゃないからと、軽く流されてしまった。
そのとき、店のドアがぎいと音を立てて開いた。なみこは慌てて立ち上がった。三十代前半くらいの眼鏡をかけたスーツ姿の男が、恐る恐るといった様子で店内を覗き込んでいる。だが中に入ってくる気配はない。
「この間は、本当にすみませんでした」
男はその場で深々と頭を下げた。
「あの?」
訳がわからずに彼のもとへ向かう。服装による印象の違いから、すぐに気がつかなかったが、先日悪酔いして周りの客にちょっかいを出し、久保田が追い出した客だった。
「ああ、この間の」
久保田も気づいたようだ。柔らかな物腰で話しかけ、なみこの横に立った。男は脅えているのか、平衡感覚を失うのではと心配になるくらい、繰り返し頭を下げている。もしかしたらあの日の恐怖が記憶に刻まれているのかもしれない。持って来た菓子折りを、真っ直ぐ久保田に差し出している。
「もしかしてこれ、ザッハトルテですか?」
紙袋の中を覗き込んだだけで中身が分かったようだ、久保田の声が弾んでいる。
「今日時間はあるんですか? 一杯飲んでいきましょうよ、せっかく来たんですから」
そして男の背中を軽く叩き、カウンターへと促した。
なみこは思わず「え」と声を上げてしまったが、謝罪に来た男も同じ気持ちだったようだ、唖然としている。だが久保田は構わずにどうぞ、と自分の荷物をどかし、しきりに恐縮している男を隣に座らせた。
「何飲みますー?」
なみこが気を取り直して声をかけると、ビールで、と小声でオーダーしてきた。打ち消すような声で「なみちゃん、僕のボトルこの方にも」と久保田が言う。それから、
「大丈夫ですから。飲み過ぎるとどうなるのかわかっていれば、店長だとか、常連客の誰かがちゃんと声かけますから」と優しげな笑みを浮かべた。すると男は、訊かれてもいないのに身の上話をし始めた。
彼が相手をするのなら、問題は起きようもないだろう。それに意外とこういう人が長く店を支える客になるのかもしれない。
なみこはザッハトルテを一切れずつ、男と久保田の前に置く。残りを箱にしまいながら、甘い物好きの優月の顔を思い出す。これが他の客ならば「今日来ればケーキがあるよ」と、メッセージでも送るのだがそれもできない。
来てほしい人にこそ連絡もできない自分に嫌気もさすが、こういう性分なのだ。
「お店開けてくる」
なみこは店の外に出ると、木製の看板を持って階段を上がる。今日は来てくれますように。路地の向こう、仕事帰りで駅に向かう人たちを眺めながら、祈るような気持ちで看板を立てた。
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