monday_moning

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 白い鳩の舞う青空に、ファンファーレが鳴り響いている。王女の姿を一目見ようとして、王城広場に駆けつけると、すでに人集りが一帯を埋め尽くしていた。つま先立ちしても、背中が壁になって何も見えない。やがて大歓声が上がって、人が前へ前へと押し寄せる。肺を圧迫されて上手く息ができなくなっていく。 「くっそ、またかよ」  成澤優月はベッドから上体を起こし、呼吸を整えた。  壁の向こう側からは、学生の頃に流行した、人気RPGのオープニング曲が鳴り続けている。隣の部屋に住む、先輩プログラマーのアラーム音だ。枕元を探ってスマートフォンをたぐり寄せた。午前八時。目覚ましをかけた時間より三十分も早い。 「本間さんのせいで変な夢ばっかだな」  二度寝する気にもなれず、諦めて洗面台へ向かう。歯を磨きながら鏡に映る顔を見る。夜更かしが祟ってか血色がないし、一年前、就職のために上京してきた頃と比べて明らかに色白になっている。  優月は寝癖を直そうとして、洗面台に頭を突っ込んで水を被った。タオルで頭と顔を拭き、スウェットシャツをかぶる。身支度をすませると、いつもより早く家を出た。  階段に向かおうとして折り返し、隣の部屋の前で足を止める。 「本間さーん」  呼びかけてみるが反応はなかった。ドアに耳を寄せると、繰り返し鳴り続けていたファンファーレは止んでいた。生活音は何も聞こえてこない。一度起きたあと、力尽きてまた寝たのかもしれないが、睡眠を妨げられたのだから、起こす義理もないはずだ。  アパートの外階段を駆け下りる。朝の空気はまだ冷たくて、身体の中に取り込むごとに、少しずつ頭が冴えてくる。 たまにはのんびり歩くのも悪くないか。気を取り直して職場に向かおうとしたとき、隣の戸建ての柵の隙間から、ゴールデンレッドリバーが顔を覗かせているのを見つけた。 「お、クッキーじゃん。これから朝の散歩かな」  優月はしゃがみこみ、柵の間から両手を突っ込んで、長毛に覆われた首の周りを包み込んだ。尾がくたりと垂れ、気持ちよさそうに目を細めた姿を確認してから撫で回す。久しぶりの感触だ。 「うわあ、やばい気持ちいい」  手を引っこめてもなお、期待の眼差しで見つめられると離れがたい。もう一度手を伸ばす。これは日々蓄積していく疲労を癒やすための、貴重な機会なのだ。  しばらくすると、隣の家から散歩用のバッグを提げた、中年の女性が表に出てきた。ゴールデンレッドリバーの飼い主だ。長く一緒にいると、人間と犬も似てくるのか、どちらも目尻の下がった優しげな顔だった。 「すみません勝手に触って。クッキーいるのが見えたからつい」  優月が慌てて立ち上がると、女性は笑った。 「実は、少し前から庭に繋いでいたの。あなたが通らないかなって思って。ねえクッキー、このお兄さんが大好きなんだよね」  話を聞けば、犬の方も優月のことが好きなようで、後ろ姿を見かけてさえ、尾を振っているのだという。 「俺もクッキーに会えると癒されるんです。俺たち、相思相愛だったんだね」  飼い主に連れられて庭から出てきた大型犬を、改めて撫でながら、生活時間帯について話をした。最近は仕事の都合で明け方まで働く日が多く、出勤時間が不規則なこと。それでも月曜日の朝だけは、ミーティングのために決まった時間に家を出ることを伝える。 「それじゃあ月曜日の朝は、クッキーを庭に繋いでおこうか。あなたなら庭に勝手に入っても大丈夫だからね」 「いいんですか。あ、じゃあ一応俺の連絡先を」  優月はデイパックから、普段なかなか出番のない名刺を取り出した。朝早くから他人のアラームで叩き起こされて、ろくな日にならないと思い込んでいたから、この約束は予想外の幸運だ。  途中まで一緒に散歩し、名残惜しさを感じながら道を折れる。  住宅地から一本道を逸れると、オフィス街に変わった。九時前だというのに、スーツ姿の人たちが行き交っている。  クッキーと過ごす時間がゆったりしていたからか、随分経った気がするが、ミーティング開始まで、まだ少し余裕がある。  久しぶりに、会社の近くのカフェに立ち寄ることにした。扉を開けると、女性店員から笑顔を向けられた。いつもは夜のシフトに入っている大学生だ。 「あれ、朝も入ることあるんだ」  優月は思わず話しかけていた。 「今朝電話かかってきて、急遽シフト入ったんですよ。早番の人が病欠で、店長は月曜の朝は本社でミーティングがあるって言ってて」  月曜日って、なんか気が重くなることが多いですよねえ、と彼女は暗い顔だ。優月はとりあえずテイクアウトでサンドイッチとコーヒーを注文した。 「俺のとこも、これからミーティングなんだけどさ。もしかしたら終わった後、うちの社長が、社員の分コーヒー買いにくるかも。配達って、朝やってないもんね」 「えっ本当ですか。高岡さんって、直接うちに買い物しにきたりもするんですね」 「月曜の朝は結構行ってるかも」  女性の沈んでいた表情が、みるみる晴れ渡っていく。  彼女が高岡のファンだということは、優月の会社の人間は誰でも知っている。夜にコーヒーの配達を頼むと、大体は彼女が来るのだが、その時はいつも、頬を紅潮させながら話をしているから、外野にまで照れ臭さが伝染して、見ていられないのだ。 「いつもみんなにコーヒー買うなんて、高岡さんって優しいですよねえ」 「めちゃくちゃいい人だよ。仕事もフォローしてくれるし、俺みたいな入ったばっかのやつでも対等に接してくれるし」 「ああ、絶対モテますよねえ。スーツも似合いすぎるし」  ナイフとパンを手に持ったまま、動きが止まってしまっている。ミーティングがあるんだけどと作業を急かすと、彼女は大慌てで仕事を再開した。  紙袋を差し出され、いってらっしゃいませ、の明るい声に背中を押されて店を出た。  買ったはいいが、食べる時間がないかもしれない。十分で朝食を摂るか、ミーティング後に仕事をしながらにするか。悩みながらも早足で歩いていると、向かいから、ついさっきまで噂の的になっていた高岡がやってきた。  考えたことがなかったが、確かにスーツがよく似合っている。彫りの深い顔は、好みが分かれそうだが、女性からやけにモテるのは、姿勢の良さで、自信がありそうに見えるからなのか? 優月はまねをして、猫背を伸ばしてみた。 「成澤、早いな。昨日仕事終わったの遅かったろ」 「本間さんのアラームで起こされたんですー。本人はたぶんまだ寝てますけど」  愚痴をこぼすと、高岡は声を立てて笑った。 「あ、そうだ高岡さん、今日ミーティング終わったあと、コーヒーおごってください」 「そのつもりだけど。そういえば珍しいな、朝食買ってくるの。いつも食べないだろ」  視線が手元の紙袋に下りてくる。 「なんとなく今日は、誰かの『いってらっしゃいませ』が聞きたくなって。送り出されると、スイッチが入るっていうか。学生の頃は、言われたって何も思わなかったのに」 「大分、社会人が板についてきたよなあ」  もう二年目になったもんな、と高岡が軽く背中を叩いてきた。もうずっと働いているような気がするのは、濃密な日々を過ごしているからなのだろうか。 オフィスを目指してビルの階段を上り始めると、後ろから切羽詰まった足音が聞こえてきた。振り向くと、寝癖頭の先輩社員が息を切らして駆けてきたところだった。優月と高岡を追い越して、一段飛ばしで階段を上り、チノパンのポケットをひっくり返している。 「あ、本間さんだ。間に合ってるし」 「優月、起こしてくれたっていいのに。俺は今日ミーティングの準備もあるんだから」 「俺、本間さんのせいで、夢の中がいつもゲームの世界になってるんですけど」 「最高だろ?」  本気でそう思っているのか、白い歯をこぼしているから、やっていられない。 「やべえ、鍵忘れた」  本間が声を響かせる。 「あ、俺もない」  振り向くと、高岡はため息を吐きながら端末にカードを翳した。優月と本間と顔を見合わせて笑った。朝の憂鬱は、いつの間にか吹き飛んでいた。
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