wednesday_twilight

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 グラスを覆う水滴がテーブルを濡らしていく。俺が膝の上で拳を握りしめる間、向かいの席に座る男は、表情一つ変えずにこちらを見つめている。  この緊張感はなんなんだ。強烈な目力に圧倒されて逃した視線の先には『フリークスタンダード 神長廉』と書かれた名刺が置いてある。  先日、バイト先の近くにあるシステム開発会社の社長、高岡という男を飲みに誘った。「就活中なので、仕事の話を聞かせてください」と適当な理由をつけると快諾したが、約束の場所に現れたのは社長ではなく、神長という二十代半ばくらいの男だった。  年齢が近い方が参考になる話を聞けるだろう、という気遣いかもしれないが、本人が来ないのなら意味はない。用があったのは高岡だ。それなのに、明け方のバーでウーロン茶を飲みながら、見知らぬ男と話をする意味がどこにある? 「今専門学校で勉強している内容についてはわかりました。弊社に就職を希望と伺っていますが、古沢さん」  呼びかけられて顔を上げると、鋭い目がこちらに向けられていた。  だめだ、こいつは絶対にだめだ。AIで作った理想の顔のように端正な顔立ちだが、女には絶対にモテない。男の俺でさえ、目が合っただけで責め立てられている気分になってくるのだ。 「専攻がネットワークセキュリティとのことですが、具体的にはどんな分野で貢献したいと考えていますか」 「え? 貢献って、新卒にそこまで要求するんですか。色々教えてもらえるものかと」 「社員が多くないもので」 「教えてもらった上で、なんか自分に合うことできたらなーって思ったんですけど」  神長はちらりと時計を見た。彼もまた、言われてここに来ただけで、俺に興味などないのだろう。あと二、三話をして、適当なところで切り上げるのがお互いのためだ。 「専門卒業したくらいじゃ、技術的に厳しいってことですね。じゃあ無理かな、高岡さんもワンマンぽいし」 「ワンマン?」  付け加えた言葉に反応して、神長は眉をひそめた。 「だって神長さんって俺と話すために、深夜ここに来るように言われたんでしょ? 普通の人はそんなこと頼めないですよ」 「問題が発生して、今日はどのみちこの時間まで仕事だったので」 「さらにブラックなのかあ」 「たまには遅くなる日もあります」  自分の会社を悪く言われたことが気にくわないのか、神長はわずかに眉を寄せている。 「バイト先のエスプレッソマシン夜に壊れたりすることあるけど、修理の人夜中になんて来ませんよ。コーヒーないとかカフェ的には終わってますけど、でもそんなもんでしょ。なきゃないんですよ。壊れたら壊れたで仕方ない。お客さまは神様みたいな時代ってもう終わったし、客のわがままにいちいち付き合うなんて、やってられないじゃないですか」 「そうですか。それじゃあ他の工事点検が入っているから一週間対応できません、と言われても諦めるんですね」 「いやいや、それはありえないし。どんなに忙しくたって、翌日には必ず来ますから修理担当の人。そういうものでしょ」 「だから、そういうことです」  はい? と首を傾げる俺を見ながら、神長は腕組みしてソファの背もたれに寄りかかった。こちらの反応を窺っている。 「でもほら、夜間に対応できる人を置いておくとか、何かやりようがあるじゃないですか」  言っている間にしどろもどろになって、声は勢いをなくしていく。  トラブルに備えて夜間に対応要員を置いたとしても、開発にノータッチの仕事を突然放り投げられたらたまらない。システムの内部は作った人間じゃないとわからないことばかりだ。トラブルが何も起きないように初めから調整すればいいと思われがちだが、正しく組まれているはずなのに動作しない、相手側のサーバーの関係で不安定になるなど、実際に運用してみないとわからないことだらけだ。  表情から俺が理解したことを悟ったのか、神長は表情を緩めた。 「色々と気にくわないことがあるのはわかりました」 「いや別にそういうわけじゃ」 「確かに、古沢さんへの高岡の対応はどうかと思いますし」 「えっ」  つい先程擁護した高岡の批判が始まったから、俺は驚いてしまった。 「高岡は約束をしておきながら、先に帰りましたからね。本当は彼があなたと向き合うべきでした」  神長は一体何を考えているのか。混乱していると、カウンターの中からバーテンダーの女性の明るい声が飛んできた。 「ねえ二人とも、あと一時間で閉店だけどお酒は飲まないの? 高岡さんが、二人でボトル空けてもいいって言ってたよ。新しいアードベッグ入れたばっかりなんだよね」  振り向くと、彼女はウイスキーのボトルを掲げている。 「飲みますか?」  神長から訊かれて、俺は頷いた。バーテンダーの女性がすぐにボトルの口を切る。 「神長さんロックでいいよね。お兄さん割り方どうします?」 「あ、俺も同じで」  そうは言ってみたものの、ハイボールがせいぜいで、ロックでなんて飲んだことがない。  女性は丸氷と酒の入った背の低いグラスを差し出してきた。グラスに鼻を近づける。正露丸のような強烈な薬品臭がする。息を止めて酒を押し流すと、喉が焼けるように熱くなった。その熱は食道を通過して胃に落ちる。今どこを通過しているのかわかる飲み物なんて、初めてだ。一体なんだこれは。胃に穴が空きそうだが、人間が飲んでも大丈夫なのか? 俺はまじまじと琥珀色の液体を見つめた。 「何か他のものを頼みましょうか?」  涼しげな目を見開いて、神長がこちらを見ている。 「いいえ、大丈夫ですよこれくらい。酒ならいつも飲んでますから、もしここに高岡さんいたら、俺が潰してるかもしれませんね」  ここで舐められるわけにはいかない。息を止めて一杯目を空にして、同じものをロックで注文する。胃の中の燃えるような熱さにも慣れてきた。こうなったらボトルを空けてやる。 「高岡はザルですよ。そこで張り合おうとしても勝ち目はないです」 「なんですか、張り合うって」 「理由はあなたの方がよくわかっていると思いますけれど。心配しなくても、高岡はそもそも、山﨑さんに恋愛感情は抱いていませんよ」 「え、なんでわかったんですか。俺が陽菜のことで話したかったって」  俺がバイト先の同僚、山﨑陽菜に好意を抱いていることは、誰にも言っていない。陽菜から話を聞くだけで、高岡とだって一度しか話したことがなかったし、神長に至っては今日が初対面だ。混乱していると「見ればわかります」と言って、グラスを空けた。  何を見てそう思ったのか見当もつかない。だが彼は確信を持っているようだ。 「どのみち高岡は、山﨑さんの手には負えないと思います。高岡が必要としているのは自分を理解してくれる人間ですから。高岡は彼女を理解するでしょうけれど、逆は無理です」 「それ、今度神長さんから陽菜に言ってもらえません? 俺が伝えるより、神長さんが言う方が、なんか説得力があるというか。あいつが俺の言うことなんてまともに聞くとは思えないし」  彼が何度目かのため息を吐いたとき、何杯目かわからない酒が運ばれてきた。  なんだ、とっつきにくい男だと思っていたが、意外と話がわかるじゃないか。敵に回すと勝ち目はなさそうだが、味方ならば心強い。 「大丈夫ですか」  神長が目を覗き込んできた。もう初めのような圧は感じない。 「全然余裕ですよ、俺、今日ボトル開けるまで帰りませんから」  すると「えー、わたしが帰りたいんだけど」と、バーテンダーの女性が声を上げ、カウンターに座っていた中年男性が笑う。  それからはひたすら神長と話をした。これが酒の力なのか、恋愛の相談から始まって、学校のこと、最終的には仕事についてひたすら話し、いい加減に閉店だ、と追い出された。  外はもう明るくなり始めていた。神長と別れると自転車に跨がって、あてもなく走り出す。 「なんかかっけーなあ、あの人」  なぜそう思ったのか、もはや思い出せなかったが、植え付けられた印象は記憶がとんでも消えないはずだ。最初は嘘だったはずなのに、高岡の会社に入りたい気すらしている。  そういや、なんで飲みに行ったんだっけ。考えごとを始めたとたん、ガードパイプに衝突して転倒した。仰向けに転がると奇妙な開放感があった。雑踏は次第に遠くなっていく。
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