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孔雀のヴァリエーション
京での外交活動や皇国美術史の編纂といった、多岐に渡る仕事の合間を縫って、希世は観怜の屋敷に足繫く通っていた。希世という人間の滞在も、使用人たちの間で大分馴染んできたように思われた。彼らの主人たる観怜にとっては、尚のことそうであった。蔡月は主人の命により、朝一番に京で買い付けてきた着物や帯、細々とした化粧品を観怜に献上しようと彼を探したが、先刻希世と外出したと他の使用人から伝えられた。鳥と人間の、種として定められたこの交際は、蔡月が見ている限りでは順調という評価であった。屋敷の中で観怜が楽しめることには大幅な制約があるが、着飾ることは前々からとても好んでいたので、蔡月が衣装箱を抱えて帰って来ると観怜も喜んで寄ってきて、早く見せろと目を輝かせたものだった。日常の仕事を粛々とこなす音だけがする屋敷に観怜と希世の仲睦まじさを見て、うら寂しい心持になるのであった。主人と過ごした時間はこの屋敷の中では誰よりも長い蔡月は、彼のこととなると兄のような父のような、そんな錯覚を起こすことが時々あった。彼はふと光沢のある緑地の、見慣れた天井を仰ぐと、雑念を払拭するように熱心な速度で衣装箱の開封を始めた。家令の意思があるとするなら、主人がいかに幸福たり得るか、その一点においてのみである。彼は観怜の依頼とは別件で取った、婚礼衣装の見積書を数枚手帳に挟んだ。
屋敷から少し歩いたところに、鏡のような水を湛える泉が湧いている。光を遮断するように空中に伸びている枝葉の一つ一つまでが水面に映る清廉な地には、爽やかな朝の風がそよそよと吹いていた。揺れる葉の間から、陽の光がモザイクのように落ちてきて、泉の底まで沈んでいく。木綿の長襦袢一枚で水に入っている観怜は、頭まで潜って器用に泳ぐと、数秒して、金色の長髪を天の川のように背へ流していた。希世も人間には冷たく感じる、痛覚を麻痺させる水の中を泳いでいくと、羽に多量の水を含めて浮いている観怜の腕を掴んで自身の胸へと引き寄せた。希世に抱えられて、彼の肩越しにきょろきょろときらめく飛沫を追う観怜は、やはりあどけないところがある。人間より数度も高い鳥の熱が、希世には心地よく感じられるのである。
「後で髪を直してあげようか」
「……出来るのか?」
希世は水中に揺らめく金色をすくって、彼からの寵愛を信じ切っている傲慢な孔雀の挑戦的な視線を正面から受け止めていた。
「ああ。手先は器用なほうでね」
観怜を離した希世が泉から出ると、観怜もまたそれに続いた。彼は羽を大きく広げて豪快な動きで水を払うと、羽の緑が若い葉のように艶めいた。近くに置いていた大判の浴巾を持ってきた希世が、自身の髪が濡れているのはそのままに、観怜の髪を丁寧に拭いてやった。彼の羽の中の百の目が、心なしか柔らかい色をして希世へと向いている。自信に満ち溢れている観怜の、つるりとして擦れたところのない足からは、生活の雰囲気がまるで感じられないと希世は早くから直感的に分析していた。だからつい、子供にするように何でも世話を焼きたくなってしまうのだ。
「希世、簪も付けて」
そんな観怜の楽天的な要求が物語るような、彼の無意識なコケトリーもまた希世を触発させるものだった。人間にとっても、運命の鳥を持つ機会は一度きりしか訪れない。その希少さがこれだけ孔雀への情熱を掻き立てているのだろうか、もうこの世を生き尽くしたと考える希世も、自身に衝動の炎が内まく余地がこんなにもあったのかと不思議に思うほどである。彼は観怜に(分かったよ)という緩慢な瞬きの合図をして、自身の情火を悟られないように浴巾を被った。
二人が水浴びを終えて屋敷に帰ってきた後、言葉通り希世は観怜の髪を木櫛で丹念に梳いて、香油を差し、丹念に細編みを作っていた。希世の手を借りて、自分のために何かをさせることが、今の観怜にとって最も喜ばしく、楽しいことであった。絢爛な色彩に囲まれた観怜の私室が、希世という更なる輝きを以って、新たな景色として観怜の目に映るのである。扉を叩く音がして、彼が短く返事をする。固い絵の具で力強く梅の花を描いた、古い屏風の横から蔡月が現れる。彼は観怜の傍に立つ希世が振り返った時の、心安らかで深遠な眼差しに、鳥を得た人間の境地を垣間見た気がしたのである。希世が簪を取って、編み込んだ髪を巻き取って差すと、観怜のはにかんだような笑みが零れた。
「観怜様、希世様、少しお話があるのですが、よろしいでしょうか」
「何だ」
面倒事と小言なら聞かない、という観怜の悪童めいた表情は、ぴんと張った線帯(レース)の扇子に隠されている。声を掛けたはいいものの、話をどう切り出そうか思慮深く考え込んでいる蔡月に、希世は家令が神妙に切り出す話題など全てお見通しだ、といった緊張感のない様子で観怜から扇子を手品のように取り上げてしまうと、悠々と風を仰いだ。すぐにそれを取り返そうと観怜が躍起になって腕を振り回すのを阻止するべく、蔡月は端的に朗々とした声で告げた。
「お二人には……婚姻の儀について、ご一考頂きたく思いまして」
観怜が目を丸くしているのは、彼が希世とずっとこうして過ごしていくであろう胸をときめかせる季節に、『婚姻』という儀礼による意味づけがなされることが怖いと感じているからだろうか、と彼は小刻みに震える孔雀の羽に思う。希世は椅子の上で膝を抱えている、急に大人しくなった観怜の手を開いて扇子を返してやり、蔡月に暗い意思のある瞳を向けた。
「わたしは元よりそのつもりだ」
絵柄も無い白地の扇子をぼんやり眺めていた観怜は、他者と新しい契約、関係を結んで、大人になるという心的痛苦を今まさに感じているのである。希世が予定調和のように『婚姻』を受け入れているのも観怜にとっては腑に落ちない点が多分にあった。
「ぼくが……希世に嫁ぐ?」
「今と何も変わらないさ。観怜がわたしの鳥であることも。そう、鳥と人間は……」
希世は戸惑う観怜の肩を羽ごとそっと抱きながら、何か遠くに思いを馳せているようであった。孔雀という希少な鳥を得た幸福な未来を見ているのか、皇国の華々しい歴史の裏に流れてきた血を悼んでいるのか、彼は観怜から見えない哀切と情愛を喉元に溜め込みながら、金糸に頬を寄せた。観怜の漠然とした不安を和らげるのは、なぜかこうした希世の『場慣れした』仕草であった。それを蔡月は理論で理解しがたく思ったが、握力を失った観怜が落とした扇子を拾うこともせず、時折目を細めて希世の低い温度を受け取っているのを見て、所在無く希世の言葉の続きを考えていた。
『婚姻』の話が出て以来、普段の覇気が弱まった観怜を差し置いて、夜遅くまで蔡月と話し込んでいた希世は、今まで主たる目的を果たすことのなかった来賓室の長椅子で短い眠りについていた。彼は観怜ときちんとその儀を執り行うまでは、孔雀の伴侶と同じ寝台で夜を明かすことをしないと決めていたのであった。希世が自身に課した貞淑な鉄則は、爛漫な肢体を持つ観怜の矜持を少々傷つけた。彼もその意味が分からないわけではなく、希世との関係において、その身体に巡る熱を確かに感じるのである。しかし、観怜の胸中に付いたその小さな傷跡から噴出したのは、希世が孔雀に対して抱いている全ての感情への疑問であった。それに観怜が気づいたとき、彼は湯浴みの後の足をもつれさせそうになりながら、小走りで糸のように細い月だけが出ている真夜中の回廊を渡り、間隔の長い呼吸と共に眠っている希世の元を訪れていた。観怜は希世の静寂な寝顔をしげしげと眺めながら、これまで揺らぐことの無かった、自身の魅力に対する信頼が陽炎のように頼りないものへと変貌してしまったことを苦々しく思っていた。もし観怜が孔雀ではない種類の鳥であったとしても、希世は『恋の時節』がもたらす種の制約以上に伴侶を愛してやまないのである、という純粋な自尊心からきていた確信を取り戻すためには、観怜の百の目が持つ、心を見通す力を使うよりほかないと思われた。心を読むこと、真実の暴露は、ほとんど不幸な結果を生むことを分かっていながら、観怜はその煽情的な緑の羽を広げて、そこに息づく群青の目の一つ一つに意識を集中した。
(……希世の心の中に、ぼくがいないなんて。嘘だ、絶対に嘘だ)
観怜は血の気が引く思いで、何度も希世の精神を読み直したが、その中は変わらずに空虚であった。孔雀という鳥にすら、希世は何らの執着も持っていないことが、観怜には言いようもなく悔しくてたまらなかった。彼は愛好家(マニア)ですらない、恋の情火に狂わされただけの哀れな一人の人間だったのだ――と観怜は彼が抱いていた文字通りの幻想が自身から剥離していくのを百の目によってまざまざと見せつけられていた。彼は何事にも関せずといった希世のモスリンの寝間着の襟を勢いよく掴もうとしたが、すんでのところで振り上げた拳を止めた。喉を冷やす激しい怒りは、耐え難い悲哀の涙の球粒となって、観怜のフリルをあしらったドレスのような着物に降った。視力を持たず、心をただ見通すだけの百の目も、観怜の嵐のような心境に合わせてか、存在していない孔雀の姿を捉えられずに、混乱してそこかしこを向いていた。
(一人だけ見える、これは……鳥だ、……鶴? この世界には、もういない、鳥……)
一つの目が、希世の精神世界に、白雪色の羽を持つ鶴の輪郭を発見すると、残りの目もそれを見ようと視線を集めた。観怜がいる以上、この鶴もまた希世の鳥という摂理は否定されるが、希世の空虚の中には一人の鶴だけが住んでいた。もう天上へと旅立っていった鶴の面影だけを大切に抱えている希世の深淵なる孤独は、あまりにも無彩色であった。行燈の呆けた淡い光から逃げるように、観怜は羽の重みを背負い込んで、失意を着物と共に引きずりながら来賓室を出た。希世の真実の愛が欲しいという観怜の初めての渇望は、傷心を癒す危険な動力となって、新月の夜においても彼の気性をいたずらに掻きたてるのであった。
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